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75 固めと柔めのギャランティー

 年寄りの朝は早い。いつもだいたい3時か4時くらいに目が覚める。覚醒のシグナルは尿意だ。スマホを立ち上げ「尿意ラモーン」とつぶやく。フォロワーたちからはノーリアクション。
 暖かい布団から勇気を振り絞って這い出し、爆発寸前!の膀胱をさすりながら階段を降り、玄関脇のトイレに入って溜まりきった尿を放出する。立ちのぼる湯気。
 用を足したらまた二階の自室に戻って二度寝すればいいのに、いちど目が覚めてしまったら、もう寝られない。そのまま台所に行き、炊飯器の蓋を開けてみる。すると、自分には覚えのない研いだ米と水がセットされている。母のしわざだ。
 ぼくは、夜寝る前に身体の末端を冷やしたくないので、できれば夜は米を研がないようにしている。なのに、ぼくが寝たあとに母が起き出してきて米を研いでセットしてしまう。面倒な炊事をかわりにやってくれるので、ありがたいことだと感謝する気持ちもないではないが、問題はそう単純なことでもない。
 母が炊飯器をセットすると、ほぼ毎回、水の量が多いのだ。
 3合炊きの場合、水は3合のラインまで入れる。それが常識。ところが、それだとぼくにはちょっと炊き上がりが柔らかすぎる。柔らかいごはんは、どうにもおいしく感じられない。食欲が進まない。
 ぼくの理想は、米を3合炊くとき水は3合のラインよりも1ミリ、できれば2ミリ少なめで炊いたものがいい。ほどよく歯応えがあったほうが、ごはんはおいしく感じられるのだ。
 ところが総入れ歯の母は、あまり深い考えもなしで規定通りの水量にするか、なんならできるだけ柔らかくしたいという意図が働くのか、既定の水量ラインの1ミリか2ミリ上まで水を入れてセットしてしまう。その結果、炊き上がるのはお粥……とまでは言わないが、べっちょりとした柔らかごはん。ここは病院か。
 そんな事態を避けるためにぼくが何をするかというと、早朝の放尿のあと、母がセットした炊飯器をこっそりと開け、ラインを超えている水をコップですくい、規定の線から1ミリ下くらいになるまで捨てる。つまり、自分の膀胱だけでなく、炊飯器からも排尿させるのでる。炊飯、ジャー!
 翌朝、炊きあがったごはんを頬張りながら、母は言う。「なーんか今日のまんまは固くねえか?」と。もちろん、ぼくは知らんぷり。母ちゃん、ごめんよ。

 ごはんは固い方がうまいと信じてやまないぼくではあるが、ラーメンの麺においては、その限りではない。博多ラーメンのようにバリカタのほうがうまいタイプもあれば、東京の醤油ラーメンのようにある程度はしっかり茹でたほうがうまいタイプもある。
 こういうの、なんて言うんだっけ。郷に入っては郷に従え? ちょっと違うな。朱に交わればシュラシュシュシュ? 全然違うよ。適材適所? ちょっと近づいてきた。柔よく剛を制す? 
 そう! ぼくが愛してやまない永福町大勝軒の中華麺は、時間をかけてしっかり茹でてこそ、そのおいしさのポテンシャルが引き出される。柔さが固さに勝つ瞬間なのである。
 ところが、なんとも嘆かわしいことにですね、近年は東京の醤油ラーメンを出す店で、たびたび「麺固めで」とオーダーしている人を見かけるようになった。さすがに永福町大勝軒で麺固めの注文をつけている人を見たことはないけれど、暖簾分けの店では何度か見かけている。
 もちろん、食の好みなんて人それぞれなので、店が許す限りは好きなように食べたらいい。でも、永福町大勝軒──というかその大元である草村商店の麺は、しっかり茹でた方が絶対においしいと思うのだ。それを麺固めで食べられたてしまったら、草村のオヤジさんも草葉の陰で泣いていることだろう。

 以前、神保町の名店「さぶちゃん」で恐ろしい光景を目撃したことがある。いや、この話をする前に、さぶちゃんがどういう店なのかを説明しておく必要があるかもしれない。
 さぶちゃんは、かつて神保町の裏通りにあった、なんてことのない町中華である。メニューは「らーめん」と「ちゃーはん」だけ。大盛りとか半ちゃんはあるけれど、食べ物のバリエーションはこの2種類しかないという潔さ。しかも、メインのメニューであるラーメンの麺は茹ですぎだし、スープは油でギトギトしている。チャーハンも常に作り置きで、オーダーが入ると中華鍋で温め直すか、量が足りない場合は新たに作ったものと混ぜ合わせて客に出す。それをしているマスター(さぶちゃん)は、いつも咥えタバコというワイルドさ。
 だけれど、そんな雑なラーメンやチャーハンがやけにうまかった。他に替えの効かない、神保町を代表するジャンクフードの代表格がさぶちゃんだった。
 そしてある日のこと。ぼくがいつものようにさぶちゃんのカウンターでラーメンを食べていると、隣に座ったラーメンマニアと思しきお兄さんが、ラーメンを注文すると同時にこう言った。

「ラーメンは、麺固め、できます?」

 えっ? と思ったね。なぜならサブちゃんでそんな注文つける客は見たことがないから。そして、案の定、さぶちゃんがそのお兄さんに噛みついた。

「あんた、麺固めっていうけど、うちのラーメン食べたことあるの? ない? 食べたことないのに、なんで固めがいいとか、柔めがいいとか、そんなこと言えるの?」

 まったく正論である。隣でぼくは笑いを噛み殺しながらラーメンを啜っていたけれど、麺固めのお兄さんはその後も延々とさぶちゃんに説教され続け、ずっと顔を強張らせたまま、つまり自分の面を固めにされ、無表情でさぶちゃんのラーメンを食べていた。

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とみさわ昭仁
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