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26 名店酒風景シリーズ その1「たぬきや」

仕事帰りにふらりと立ち寄れる酒場の気安さもいいが、あらかじめ日程を調整しておいて、その日が来るのを首を長くして待つというような、とっておきの店もまたいいものだ。飲ん兵衛だったら、そんな店の一軒や二軒は持っていたい。

ぼくの家から遠く離れたところの川原に、その店はある。

いわゆる“川原の茶屋”というやつで、店といっても造りは掘っ建て小屋のようなもの。壁はあちこち傷んでいるし、梁の上には蜘蛛の巣が張っている。夏でも冬でもほぼ窓は全開で、川からの風が店内を通り抜ける。平然と蚊が入ってくるので、腕をぽりぽり掻きながら酒を飲むことになる。

だが、それが最高なのだ。とても気持ちいいのだ。この世の極楽とは、ここだったのか。

こんな店が家の近くにあったりしたら、おそらく人間として終了していただろう。恐ろしいことに昼間からやっているので、仕事どころではなくなるに決まっている。連日入り浸ってしまうだろう。ああ、家から遠くてよかった。

その店に行くためには、我が家の最寄りであるJR新松戸駅から武蔵野線に揺られること19駅。着いた府中本町で南武線に乗り換え、さらに4駅。ここまで1時間20分を経て、降り立つのは稲田堤駅。そこから多摩川目指して歩いていき、土手を乗り越えた先の川原に、その楽園はある。

目印は「営業中」であることを示す赤いのぼり。いちおう午前11時開店ということになっているのだが、店主の都合で開店が遅れることは珍しくない。臨時休業だってある。せっかく2時間近くかけてやって来て(徒歩移動の時間を加えればそれくらいかかる)、赤いのぼりが出ていなかったときの落胆と絶望感たるや!

だから、ちゃんと赤いのぼりがハタメイテいるのを目にすると、胸にぐっと込み上げてくるものがある。『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健も、きっと同じ気分だったのではないだろうか。ラストシーンで、黄色いハンカチの家に向かう健さんの背中を押すのは緑のたぬき……じゃなくて武田鉄矢。ぼくが向かっているのは赤いのぼりのたぬきやだ。

川原の茶屋なので、豪華な料理や酒を期待してはいけない。酒は冷蔵庫から自分で瓶ビールや缶チューハイを取り出す。ホッピーなんかもある。つまみは枝豆、冷奴、フランクフルト、おでん、もつ煮込み、焼きそば、カレーライス……といった夜店チックなものがある程度。でも、このジャンクさが川原の風景によく似合う。

基本はセルフサービスなので、自分でテーブルに運んでいく。そして、ビールのグラスに口をつけ、焼きそばを3本ばかり箸でつまんですすっていると、ハタと気がつくのだ。

夏の酒を本当にうまく飲ませてくれるのは「風」だと。

この店にはポテトチップなんかの袋菓子も売っていて、それを開けて飲むこともできる。でも、家でポテチをつまんで飲んでいるときとは、確実に味が違う。家には風が吹かないからだ。

さて、次はいつ行けるだろうか。そろそろまた計画を立てるとしよう。

……と、ここまでを2015年の7月に書いたのだが、その後の2018年10月に、たぬきやは80年の歴史に幕を閉じてしまった。いつかそうなることはわかっていたが、いざ本当になくなってみると、心にポッカリ穴が空いたような気分になる。いつまでも、あると思うな、親とたぬきや。

在りし日のたぬきやの様子は、その発見者であるパリッコくんがデイリーポータルZに書いた記事でも見ることができる。
https://dailyportalz.jp/kiji/tanukiya-atochi-de-nomu

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