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36 鹿児島の夜空に軍歌が鳴り響く(前編)

旅に出かけたときのいちばんの愉しみは、観光することでも、おいしいものを食べることでもない。夜の街に繰り出すことだ。

あ、いまエッチな話を期待されただろうか? 残念ながらそちら方面には話が展開しない。なにせこれは酒エッセイですからな。ぼくが夜の街ですることといえば、いい酒場を見つけ出すこと。その土地ならではのいい酒場と出会えるかどうかは、酔っぱらいにとって重要な問題だ。それが旅の満足度をほぼ決めてしまうと言ってもいい。

どの酒場へ行くかは、事前にネットやガイドブックで調べておく場合もあるが、現地に着いてから初見で決める場合もある。いつか行きたいと思っていた名店を訪ねる満足感もいいものだが、行き当たりばったりでの偶然の出会いもまた、実にいいものなのだ。

このたび(※註:2015年)、娘との夏休み旅行を兼ねて鹿児島まで古本の仕入れツアーに行ってきた。4日間かけて鹿児島市内のブックオフ12軒をまわる旅だ。ま、そのことはここでは割愛する。大事なのは酒場である。

初日の夜、娘は鹿児島へ引っ越していった幼なじみの家にお泊まりするので、ぼくは一人でホテルに泊まる。当然、夕食も自分一人。いい酒場を探しに夜の街を徘徊するには、うってつけの状態だ。

宿泊したのは鹿児島市内の天文館というエリアで、バスと路面電車が縦横に走る躍動感にあふれた歓楽街だ。大きな店から小さな店まで、シブい店から色っぽい店まで、数多くの飲食店が軒を連ねている。贅沢を言わなければ、酒を飲ませる店なんて選び放題だ。

大通りから一本、二本と順繰りに裏通りへ入っていくと、薄暗い一角に古ぼけた雑居ビルが建っていた。普通なら通り過ぎるであろうこのビルの前でぼくが立ち止まったのは、ワケがある。ビルの上階のほうから、大音量の音楽が降り注いでいたからだ。

その音楽が、誰の何という曲かはわからない。だが、特定のジャンルのものであることはすぐにわかった。軽快なリズムに、けたたましく鳴り響く管楽器と、勇壮な歌詞。

これは軍歌だ!

おんぼろビルからガンガン漏れ聞こえてくる軍歌。いったいどういうことだろう? ……とは思わなかった。実はホテルを出る前にネットで検索し、そういう店があると知っていたからだ。

その店の名は「軍国酒場」。ここ天文館で営業を始めて50年(多少サバ読んでいる)。店内には太平洋戦争での遺物が所狭しと飾られており、店主は戦時中の用語で会話するという徹底ぶり。そんな奇矯な店なら、いちどは覗いてみなければなるまい。

だが、実際にその有様を目の前にすると、さすがに怖じ気づく。なにしろビルに一歩足を踏み入れると、いきなり階段に照明がなくて真っ暗なのだ。相変わらず軍歌はガンガン鳴り続けているので、営業はしているのだろう。だが、真っ暗。ウェルカム感ゼロ。

それでも勇気を振り絞って、階段を上がっていく。踊り場には薄ら青い電灯がついているが、その電灯が照らす壁には「一歩前進」とか「ぜいたくは敵だ」とか、戦時中の標語が貼ってある。

一切テナントの入ってない廃ビルを4階まで上がり切ったところが最上階で、ここに目指す店はある。あるはずなのだが、あまりにもごちゃごちゃと物が置いてあって、どこが入り口なのかわからない。右手に黄色いゲートがあったので、そこをくぐるとドアらしきものがあった。たしかに軍歌はこの中から聞こえてくる。

ぼくにこのドアを開ける勇気があるだろうか。そもそもこれはドアなのだろうか──。
(来週へ続く)

※註:軍国酒場は、ビルの老朽化により閉店。2017年4月より霧島市隼人町にて「軍国亭」と名を変え再開しているそうです。

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