17 メタルマックスを作った町、荻窪
1989年。この年は自分の人生においていろいろなことが起こる、激動の年だった。
4月に初めてのワープロを購入し、仕事に使い始める。メンバーとして参加していたゲームフリークはまだアマチュア集団だったが、自主制作でファミコン用ゲーム『クインティ』を完成させ、ナムコから商品化されたのはこの年の6月だった。ぼくは開発にはノータッチながら、取扱い説明書の編集を任された。
8月には、ファミコン神拳で仲良くなったミヤ王さん、キム皇さんと共に『メタルマックス』を企画し、荻窪のデータイーストまでプレゼンに行っている。
で、9月には薬王寺町の事務所を解散し、ゲームフリークに近い下北沢にアパートを借り、自分一人のための仕事場を設けた。『メタルマックス』の制作と、ゲームフリークのメンバーとしての活動という二足のわらじで、ゲームについて文章を書いたり、ゲームそのものを作ったりすることが、仕事の中心になっていた。
「ファミコン神拳」のときは月に一度集まるだけなので、酒好きなミヤ王と飲みに行くのも月イチのペースだった。ところが『メタルマックス』の開発が始まると、一緒にいる時間は格段に多くなる。当時、新宿にあったミヤ王の事務所に通い詰めて仕様書を書き、日が暮れたら飲みに繰り出す。
荻窪に行くのは週イチくらいのペースだったろうか。一週間で出来た分の仕様書を持ってデータイーストに集まり、プログラマーたちを交えて会議をする。仕事が終われば、当然のごとくミヤ王と飲んで帰ることになる。
最初のうちは、荻窪でもいろんな居酒屋を利用していたが、やがて地酒専門店の「いちべえ」という店に定着した。ぼくはあまり日本酒は得意でなかったが、訪ねるたびにせっかくだからと各地の地酒を堪能した。南部美人(岩手)、出羽桜(山形)、一ノ蔵(宮城)、〆張鶴(新潟)、酔鯨(高知)といった各地の銘酒を初めて飲んだのはこの店でのことだ。
ときには荻窪から六本木までタクシーを飛ばすこともあった。ミヤ王が馴染みのクラブに行くので、そのお供をするのだ。この頃は、自分もそこそこ稼げるようになっていたが、とはいえ自腹で六本木のクラブの支払いをするのは無理がある。なので、こういうときは全部ミヤ王の奢り。『勇者と戦車とモンスター』にも書いたことだが、初めてメキシコ産のコロナビールを飲ませてもらい、すっかり気に入ったぼくは『メタルマックス』に登場させる高層ビルに「コロナビル」という名前を付けた。
他にも、ポールダンサーがいる店とか、チップを咥えて女の子の胸の谷間にごにょごにょ……とする店なんかにも行った。自分からは絶対に行かなようなところでも、ゲームデザイナーは様々な経験をしてこそ豊かなアイデアが生まれるので、ぼくらは仕方なく夜の六本木を徘徊した。
荻窪に話を戻すと、最初はミヤ王とキム皇との3人で飲んでいたわけだが、途中から『ジャングルウォーズ』の制作が始まってキム皇がチームから外れると、ミヤ王とぼくの2人になり、やがてデータイーストの中本名人こと中本博通さんや、プログラマーの田内智樹くんも交えて飲むことが多くなっていった。『メタルマックス』を作っていたときのことを振り返ると、開発作業のことよりも、ただひたすら飲んでいたときのことばかりが思い出される。
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