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46 「茶」も「漬け」もない茶漬け

 お茶漬けが大好きである。
 炊飯器を開けて、ちょっとごはんが残っていたらお茶漬け。朝起きて食欲がなければお茶漬け。いいお漬物があればお茶漬け。飲んだ〆にもお茶漬け。授業をサボって喫茶店でお茶漬け、風呂入ってお茶漬け、クソしてお茶漬け、そいでまたベッドでお茶漬け。
 ラーメンを筆頭に、食うものには何かと面倒臭いこだわりがあるぼくのことだから、お茶漬けにも何らかのこだわりがあると思われるかもしれないが、ないのだ。お茶漬けには、ないのだ。
 基本は永谷園。冷やめしにあれをサラサラとかけて、お湯をぶっかける。それだけで十分。お漬物があれば刻んで入れるし、梅干しとか、塩昆布とか、鮭とか、しらすとか、たらことか、茶漬けっぽい具があれば追加することもある。だけど、なくたっていい。プレーン上等。それくらい永谷園のポテンシャルは高い。
 マグマ舌的には、雪平鍋にお湯を沸かしてごはんを入れ、適当な永谷園を入れてグツグツと煮たら熱々でうまいのではないか? と思ったこともある。でも、それってお茶漬けか? もはや雑炊ではないの? と疑問を感じたので、試したことはない。
 お茶漬けとは、やはりあくまでもお茶碗にごはんをよそい、永谷園のお茶漬けのり、もしくは思い思いの具をのせて、上から熱ーいお茶を注いで、さらさらさらっとかっこむ。そういうものだと思うのだ。

 と、ここまで永谷園を全肯定してきたそばからそれをひっくり返しますけど、永谷園のお茶漬けのりって、しょっぱすぎるよね。
 普通のごはん茶碗に一食分のごはんをよそい、お茶漬けのりをかけて、適量のお湯を注いだ……はずなのに、なんだかしょっぱい。ましてや、そこに塩鮭のほぐし身とか、塩昆布とか、たらことか、そこそこ塩分のあるものを足したりすると、てきめんに塩分過多のお食事となる。
 ぼくはいつも、永谷園は半分しか入れない。数あるフレーバーの中では「梅茶漬け」が好きなので、それを半分だけ入れ、そこに本物の梅干しの梅肉をひとつまみ入れるとか、「わさび茶漬け」にきゅうり漬けや白菜漬けを刻んで入れるとかすると、塩分量はちょうどいい。それで余ったもう半分のお茶漬けの素は、翌日用に残しておく。永谷園の袋は内側がアルミコーティングされているので、破り開けた口もクルクルと丸めやすいんだな。

 テレビドラマ版、映画版、どちらでもいいのだけど、勝新太郎の『座頭市』シリーズは、優れた「お茶漬け映画」としての側面がある。そう、劇中で座頭市が食うお茶漬けが、ことごとくおいしそうなのだ。
 旅の途中の市っつぁんが街道筋のめし屋に入り、お茶漬けを所望する。運ばれてきためし茶碗にお茶を注ぐが、適量のところでピタリと止める(座頭市シリーズはそういう描写がいちいち気持ちがいい)。そこへ沢庵をひと切れ突っ込み、短く持った箸でザクザクとかっこんでいく。これがびっくりするほどうまそうなのだ。めしと、お茶と、沢庵だけなのに。
 江戸時代に永谷園はなかったわけだから、本来のお茶漬けというのは座頭市が食べているようなものだったのだろう。魚だって塩鮭ではなくて、せいぜいがメザシだったはずだ。お茶漬けに贅沢は似合わない。

 我が家には、究極の貧乏茶漬けがある。それは親父がまだ元気だった頃、毎年夏にたびたび観測された。
 真夏の暑さで食欲を失った富澤辰雄さん(当時60歳)は、茶碗によそっためしに蛇口から水道水をジャーとかけ、そこに製氷皿から掴み取った角氷を2~3個のせて、水茶漬けにして食うのだ。永谷園を使うわけでもなく、お漬物を刻むわけでもない。ただ、ただ、米と水と氷。炭水化物が秘めているエネルギーを、氷の清涼感を借りて摂取しようという試み。もはや動物である。ほとんど本能だけで生きている。
 だけど、この富澤家秘伝の水茶漬け、ぼくは嫌いじゃない。夏の間に自分でも10数回はやってるんじゃないだろうか。
 暑くて暑くて何もやる気がしない夏。食欲さえも蒸発する夏。それでも、水と米さえ摂取しておけば死にはしない。富澤家の大切なライフハック。
 それに比べりゃあ、東海道五十三次カード欲しさに永谷園のお茶漬けを買うのなんて、貴族の遊びですわな。

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