10 謎の下町汁の正体
ボールをよく飲む。
わたしゃ人間ポンプか。そんなものを飲み込んだりはしない。ここで言うところの「ボール」とは、ハイボールのことだ。東京の東側にある大衆酒場では、ハイボールのことを略してボールと呼んでいる。
ハイボールと言っても、いま流行のウイスキーを炭酸で割ったものではない。ぼくはウィスキーハイボールを飲むことは滅多にない。他に選択肢がなけりゃ飲まないでもないが、そんなに好きな味ではないので積極的には選ばない。
下町大衆酒場のボールといったら、まず焼酎を炭酸で割る。それだけじゃ単なるチューハイなので、そこにちょろっとシロップを足す。これが決まりだ。店によっては最初から焼酎:炭酸:シロップが絶妙な配合で混ぜてあって、サーバーから注いでくれるところもある。
そこで問題はこのシロップだ。
これ、何味なんだろうか? レモンでもグレープフルーツでもない。梅シロップだと言われることもあるが、梅の味ともちょっと違う。
と、こういうことを迂闊にツイッターでつぶやいたりすると、「とみさわさん、それは〈天羽の梅〉と申しまして、台東区の天羽飲料が作っているハイボール用のシロップなんです。元祖の素なんて呼ばれたりもしておりまして……」というコメントが飛んでくる。
そうね、教えてくれてありがとね。でも、いまのご時世、そういうことはちょっと検索すればすぐに出てくるの。だからぼくも知ってました。
とても厄介なことに、酔っぱらいおやじが何か疑問を呈したときは、正解を求めているわけじゃない。「これはいったいなんだろうな~」と、酔ったアタマで考えることが楽しくて、その思考がつい外へ漏れてしまっただけなのだ。その漏れ出た疑問に対して、正解を教えようとすることは、正しいおこないじゃない。酔っぱらいおやじが求めているのは、つまらない正解ではなく、おもしろい間違いだったりするからだ。そのほうが、酒の肴としては上等だ。
というわけで、いま知った正解はここでいったん頭から消し去って、もういちど最初からやり直そう。
「これ、何味なんだろうか?」
かすかなレモンの味はする。だが酸っぱさは控えめだ。レモンサワー嫌いのぼくが、このボールだけはぐんぐん飲める。じゃあ、梅か? と言われると、それも何か違う気がする。何かの果実の単独の味とは違うのだ。きっと複数のシロップをミックスして、味がマイルドになるよう仕上げているのではないだろうか。
これまで、あちこちの名店と言われる大衆酒場でボールを飲んできたが、大半の店では、さっきお節介にも教えていただいた〈天羽の梅〉の大瓶が置いてあったりする。あるいは、他社製のシロップの場合もある。いずれにせよ、そのシロップを単独で使っている店は少ないはずだ。秘伝の“何か”はカウンターの下に隠してあるのかもしれないが、たいていどこの店も複数のシロップを調合して、自分の店独自の味を創出しているのだろう。
足立区のとある大衆酒場に行ってみたときのこと。店の大将が独特の容器で、酎ハイのグラスにシロップを注いでいた(※トップの画像はそれを激写したもの)。これによって「酎ハイ」が「ボール」に生まれ変わる。さっそく注文して飲んでみたそのボールは、なんとも言えずうまいのだった。
あのシロップの配合が知りたいな。しかし、聞いたところで教えてもらえるはずがない。もとより、そんな無粋なことをしたくない。
あの謎のシロップを、ぼくは「下町汁」と命名した。そして、しばらくその店に通った。こっそり、汁の容器を隠し撮りしたこともある。
下町汁なんて言い方をすると、労働者階級の男たちの汗のようだが、どちらかと言えば涙に似て、少しばかりほろ苦い。その苦さが、ぼくら酔っぱらいを惹きつける。
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