25 帰ってきた下北沢編その7
下北沢にはずいぶん長く住んだ印象があるが、実際はそうでもない。ぼくが下北沢にアパートを借りたのは1989年の9月で、そこに3年間住んだ。そのあと一旦は松戸へ戻ったり、明大前に引っ越したり、結婚を機に立川へ移ったりしたが、ゲームフリークから独立したあとも継続して仕事をもらっていたし、馴染みの飲み屋もたくさんある。さらに、数年後にはゲームフリークに復職もしたので、相変わらず下北沢に通う日々は続いた。だから、実際に済んだのはたった3年間でも、下北沢にはずいぶん長く住んていたように感じられるのだ。
これまでにあまり触れなかった店についても、少しずつ書き残しておこう。
まずは、「下北沢編その3」でチラッと名前を出した「STOMP」。ミュージシャンの近藤房之助さんが経営するブルース・バーだ。下北沢にそういう店があって、オーナーが近藤さんであることは以前から知っていたが、恐れ多くて足を踏み入れる勇気などなかった。けれど、ある日、気まぐれでこの店へ足を向けてみた。年齢を重ねてブルースという音楽に少なからず興味を持ち始めていたし、例の「プライベート・バー」に通うようになって、多少はこうした店にも慣れてきたということもあった。
路上に置かれた「STOMP」の看板を横目に見て、細い階段を降りていく。ドアを開けると、店内の壁面にはブルースのレコードがぎっしりと並んでいる。客は誰もいなかった。カウンターに座り、ウィスキーのソーダ割りを注文する。飲み物ができると、マスターがグラスを持ったまま客席の側へ回ってきて、ぼくの隣に座って声をかけてきた。
「この店、初めてだよね? ブルース、好きなの?」
近藤房之助さんご本人だった。もう何を話したかも覚えてない。ただただ緊張して、ぎこちなく受け答えした。近藤さんは、ブルースに疎い初心者をバカにすることもなく、あれこれとお勧めのレコードをかけてくれた。ウィスキーのソーダ割りを3杯ほどお代わりしてそそくさと店を出たが、あの日がぼくにとって至高の時間だったことは間違いない。
近藤さんの店に行って近藤さんがいるのは当たり前の話だ。そんなことでいちいち驚いていたら下北沢では暮らせない。なぜなら、下北沢は小劇場とライブハウスが多い「演劇とロックの街」だからだ。道を歩いているだけでも、有名人とすれ違うことは珍しくない。白竜さんが険しい顔で茶沢通りを歩いているのとすれ違ったこともあるし、代沢の横断歩道で信号待ちをしていたら、向こう側で鮎川誠さんが小さな女の子二人と手を繋いで立っていたこともある。幼き日の双子の娘、陽子ちゃんと純子ちゃんだ。
女房と付き合い始めたばかりの頃、古着屋「CHICAGO」の2階にある焼肉屋「みその」へ食事しに行ったら、隣のボックス席が柄本明さんご一家だったこともある。小さい男の子が二人いたから、あれも若き日の佑くん、時生くんだったのだろう。隣り合わせにスターがいる。そういう街。
下北沢を代表するロック・バーはいくつもあるが、間違いなくそのひとつに挙げられるのが「トラブルピーチ」。ここも敷居が高くて足を踏み入れるのに勇気がいったが、下北暮らしも長くなってきた頃には、割と臆せずどこにでも顔を出すようになっていた。
あるとき、ピーチで飲むために2階へ行ったら、隣の席がワハハ本舗の久本雅美(と当時彼女が付き合っていた彼氏)だったことがある。飲むうちに、酔ううちに、彼女はどんどんテンションが上がって、やがてマチャミの独演会状態になった。フロアの客はおろか、マスターも巻き込んでみんなでゲラゲラ笑い転げた。あんな楽しかった夜はない。まだワハハ本舗が小劇場を中心に活動する演劇集団であり、主演俳優たちがテレビでブレイクする前の話だ。
下北沢は「演劇とロックの街である」というのは間違いないが、無名時代のゲームフリークが過ごした街でもあり、なんなら『ポケモン』が生まれた街でもある。ぼくの個人的な印象としては「演劇とロックとゲームの街」と言いたいところだが、世間的には果たしてどう思われているだろうか。
※写真はトラブルピーチの入り口。その奥に見えるのは、うちの女房の親友の夫が経営するバー「バシブズーク」。この一角は下北沢の再開発で綺麗さっぱりなくなってしまうのだと思われたが、奇跡的にいまも残っている。
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