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37 鹿児島の夜空に軍歌が鳴り響く(中編)

ドアに手をかける。ちょっと迷って手を離す。本当にこの中に入って大丈夫だろうか。ぼくは生きて帰ってこれるだろうか。「こんな凄そうなところがあったよ~」と入り口周辺の写真だけ撮ってTwitterにアップして、それでお茶を濁したところで、誰がぼくを責められよう。鹿児島の酒場の取材は、別のところですればいい。他にいくらでもシブい酒場はあるはず。

いちどはそう考えて引き返そうと思ったのだが、ぐっと踏み留まった。仮にも酒や酒場に関するエッセイを連載させてもらっている身だ。こんなに“おいしそうな物件”を訪問せずに引き返す手はない。いまは自分を納得させたとしても、ここを見ておかなければあとで絶対に後悔する。

ガラガラガラ……。中に足を踏み入れ、そろりそろりと歩を進める。他に先客はいないようだが、店員さんの姿も見えない。店の奥に向かって「すいませ~ん」と、どうにも腰の引けた調子で声をかける。すると、それを打ち消すような実に勇ましい声が返ってきた。

「1名入隊ー!」

あらわれたのは、白い割烹着に「大日本國防婦人會」と書かれたタスキを身に付けた、おかっぱ頭の女性だった。この方が店の女将──いや、大日本國防婦人會の婦人部長である。一見の客の5割はもうここで引き返していることだろう。

だが、ぼくが訪問したときは他に先客のいなかったことが、幸いした、だって考えてみてほしい。この店内に、太平洋戦争を実際に生き抜いてきたようなご老人たちが車座になり、酒の入った茶碗を手に手に『同期の桜』を合唱していたら、ぼくはどんな顔をしてそこに混じればいいのかわからない。けれど、そうではなかった。ぼくしか客がいないことが、かえって安心感を与えてくれた。

ぼくは一人で来たことを伝えると、婦人部長は「満州方面」と書かれたカウンターに座るよう案内してくれた。店内には、所狭しと軍装品や戦争の遺物が飾られている。これはすべて当時のもの、つまり本物だそうだ。店のオーナーであるご主人が何年もかけて集めたのだとか。

さて、なんとか席に着いたものの、何をどのように注文すればいいのかわからない。この店にはメニューらしきものがないからだ。事前にネットで調べていたので、お酒はビールと焼酎しかないことは知っていた。そこで無難に「ビールをください」と声をかける。

「魚雷発射ー!」

やられましたな。瓶ビールの栓を抜いた婦人部長が、そう叫ぶわけですよ。この店では、ビールは魚雷、焼酎は爆弾と呼ぶ習わしになっている。これを「なんだ戦争ごっこじゃん」と笑うのは簡単だ。けれど、オーナーがあの時代を生き抜いてきた人だからこその、単なる“ごっこ”では片付けられない重みがある。

店頭に置いてあった立て看板に書かれたメッセージを引用しておこう。

「当店は、苦しかった戦争中の事を偲び、亡き父兄又は近親者並びに戦友の想い出を語りつつ、楽しく過ごして戴くことを念願して、営業しております。従って、酩酊者及び他のお客様に迷惑をかける恐れある者の入場は固くお断りしますから絶対に入らないで下さい。右該当者は他店へ行って十二分に羽根を伸ばして下さい。 軍国酒場主人」

とりあえず入店は叶った。ビールも来た。さて、これからどう振る舞うべきか。酒飲みとしての経験値が問われる局面である。

(次回へ続く)

※註:軍国酒場は、ビルの老朽化により閉店。2017年4月より霧島市隼人町にて「軍国亭」と名を変え再開している。

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