08 まぼろしの釣り堀おでん
冬に最高のおつまみといったら、おでんで決まりなのである。
なのであるが、おでんならなんでもいい、というわけにはいかない。
居酒屋のメニューにある「おでん」の場合、5種ほどの具があらかじめセットされているスタイルもあれば、好みの具を選べるスタイルもある。いずれにせよ、厨房の大鍋から熱々のおでんを皿に盛りつけ、店員さんが客席まで運んできて、テーブルに置かれた頃にはうっすら冷めていて食べやすい温度に……。
って、そんなものはおでんじゃない!
ぼくがおでんと言ったら、カウンターの目の前におでん用の四角い大鍋がドカンと設置されていて、そこから皿に盛られた熱々のおでんが即座にカウンターへ置かれ、冷める間もなくおのれの口中に放り込める、そういう状態のことを指す。
おでんの冷めない距離が重要だ。ナベ→サラ→クチ、この惑星直列がなければ、おでんとは呼びたくない!
これは単にぼくが熱いものを好むというだけで(これをマグマ舌と呼んでいるが、その話は次回します)、おでんのうまさとは直接の関係ないんだけれど、そういうどうでもいいこだわりを書くのがこのエッセイの狙いなので、話を続けますよ。
30年ほど昔の話。下北沢には最高のおでん屋があった。
茶沢通りに面した民家風の建物。ガラス戸を引き開け、六坪ほどの店内に足を踏み入れると、真正面にでかいおでん鍋がある。まるでプールのようなサイズ。初めて行ったときは釣り堀かと思った。
そのおでん鍋を囲むようにカウンターが作られており、テーブル席はない。だからこの店に来るのは一人客が大半で、たまに二人連れもいた。
店は老夫婦が切り盛りしていて、バアさんはお酒ときゅうり漬け担当(サイドメニューはこれしかない)、店の主力商品であるおでんはジイさんの管轄だ。といっても、着席してすぐに好きな具を選ばせてもらえるわけじゃない。まずは店の一番人気である厚揚げを食わされる。
「セガレ、うちの厚揚げ食ってみろ。うめえぞ」
ジイさんは男性客のことを「セガレ」、女性客のことは「ムスメ」と呼ぶ。これが彼なりのもてなしなんだろう。
実際、その厚揚げはどこの店で食べたものより感動的にうまかった。あらかじめ暖めてある皿にその厚揚げをのせ、熱ーい汁をたっぷりかけてくれる。おでんの場合は具の味というよりは、汁の味でほとんどが決まるわけだが、ウマ過ぎず、マズ過ぎず、普通にうまいのが素晴らしかった。わかりますか、この感じ。
味の良さを売りにしたり、個性的な具(たとえばトマトとか!)を売りにしたりする店はあるけど、そんなもん「普通であること」の力強さには太刀打ちできない。おでんって、そういうもんでしょう。寒い冬に、この店のカウンターに座って、熱々の厚揚げをかじって冷たいビールを飲む。最高だったなー。
この店、おでんの味は見事なまでの普通さだったけど、営業スタイルは突拍子もなかったね。ジジババ経営で年金もらってるから、売上げとかそんなに気にしてなくていい。だから営業するのは冬期だけ。春から秋まではずーっと店を休んじゃう。休んでる間は何してるかっていうと、夫婦で日本中を旅してると言ってた。幸せな老後だったと思うな。
もちろん、いまはもうその店はない。そりゃそうだ。生きてたら110歳を超えている。