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16 大松の壁に残された読めないお品書き

『建築の忘れ形見』(1985年/INAX出版)という本がある。近代建築の破片コレクターである一木努さんのコレクションをまとめたものだが、破片といってもただの破片ではない。たとえば帝国ホテルのスクラッチタイルだったり、霊南坂教会の階段の頭飾りだったり、美空ひばり邸のフェンスに付いていたト音記号だったりというように、その建物を象徴するような部分ばかりを集めているのだ。つまり、一木氏が集めていた(※)のは、その建物の“顔”だと言える。

これを酒場に置き換えるなら、やはりその酒場を象徴するような部分は、酒場の顔と言うことができるだろう。

かつて、下北沢の会社に勤務していたとき、足繁く通った店のひとつに「旬亭」というバーがあった。

そこは「ビッグコミックスピリッツ」や「モーニング」などの青年コミック誌で活躍する漫画家たちが集まる場所でもあった。ぼくに漫画家の友人が多いのはそのせいでもあるのだが、その話はまた別の機会に。

旬亭は店内の端から端まで伸びた大きなカウンターが特徴でもあった。材質はブビンガという熱帯アフリカ産の常緑広葉樹だそうで、一般的にはアフリカンローズウッドと呼ばれてギターに使われることが多いという。

そのブビンガの上でどれだけの酒を飲んだことだろう。旬亭に通っていた頃は、ボトルでキープしてあるタンカレーを炭酸で割ってもらい、ジンソーダにして飲むことが多かった。奇しくもマスターの名前も仁(ジン)さんといった。

ジンさんは料理の腕が良く、ぼくがいつも頼むのはポテトとベーコンのチーズ焼き。スキレットにバターを引き、スライスしたタマネギを並べ、その上に軽くレンチンしたポテトと刻んだベーコンを盛る。そして上からチーズをかけてオーブンで焼く。真似して家でも何度かやってみたが、ジンさんの味には届かなかったな。

もう何年前になるか覚えていないが、旬亭はジンさんの家庭の事情で閉店してしまった。あのブビンガのカウンターは、知己を頼って何処かへ譲ったらしいが、それがどこなのかはわからない。いつか、どこかの店で偶然再会したら、一瞬で気がつける自信はある。

下北沢には、他にも好きだった酒場はいくつもある。焼き鳥の「八峰」は有名だったので知っている人も多いのではないか。焼き鳥がどれも絶品だったけど、ぼくはひな皮と長葱を炒めたやつが好きだった。この店もすでに閉店しているが、そのときにぼくの友人でもある常連のぽっきーよが暖簾を譲り受けたという。

稲田堤の河原にあった「たぬきや」も、すでに存在しない。あの店は開店していることを示す「営業中」の赤いのぼりが目印だったが、あれは誰かがもらったりしたのだろうか?

のぼりではないけれど、たぬきやは営業時には店頭に「いらっしゃいませ」と彫られた木札を掲出していた。これは酒場ライターのパリッコくんが譲り受けて、いまも現存している。とても相応しい人物のとろへ行ったと思う。

伝説の天国酒場「たぬきや」跡地で飲む(デイリーポータルZ)

常磐線の綾瀬にある「大松」は老舗のもつ焼き屋で、いまでも営業中だが、数年前に元あった場所から200メートルくらい離れた別の場所へ移転している。壁に貼られたお品書きが炭火で煤けまくっていい味が出ていたのだが、移転したときにそのお品書き札は一新された。

ああ、大松の顔が失われたか……と、ぼくを含めて常連さんたちは悲しんだものだが、店主はちゃんとわかっていたようだ。以前のお品書き札の一部を新しい店内の壁に貼ってあるのだ。それがトップに挙げた写真である。

酒場の顔とは、いろんな形をしているものだ。

※残念ながら、2007年9月25日に発生した火災によって一木氏の自宅と物置は全焼し、一木コレクションの大半は消失してしまったという。

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