28 煮込みと古本
酒場にとっていちばんの顔は店主である。それは間違いない。ぼくが行きつけの酒場やバー、スナックなどのことを思うとき、真っ先に思い浮かぶのは店主(マスター、ママ)の顔だ。
キャバレーの箱バンのバンマスみたいな風貌をした亀有・江戸っ子の大将。飲みに行くたびに新しい音楽と出会わせてくれる強面とえびす顔が共存する千駄木・バーイッシーのマスター。凛々しく立ち働くなかで時折見せる笑顔に雅子様のような優雅さがにじむ四ツ谷・スナックアーバンのママ。日本海で獲れた魚料理の腕が絶品な松戸・な兵衛のオヤジさん。酒場での新しい出会いが生まれることにいつも気を配っている東中野・バレンタインのMUNEさん。
ぼくがこれらの店に行くときは、お酒を飲むためというよりも、彼ら、彼女らに会うために行ってるのだと思う。
酒場の顔がすなわち店主であるということを考えたとき、それを突き詰めていくと自分が酒場の顔になる可能性を考える。
過去に一度、古本屋の顔にはなったことがある。もちろんマニタ書房のことだ。あの店には、本を求めてというよりも、店主とみさわ昭仁に会いたくて来てくれていたお客様も、決して少なくなかったのではないかと思う。たった7年間の営業だったけれど、とてもありがたい体験だった。
すでにあちこちで書いて来たことだが、マニタ書房を始めるとき、最初の計画には古書の販売と酒類の提供を兼ね備えた「古本酒場」にする案もあった。そうすれば、古本屋の顔と酒場の顔になることを同時に実現させられるからだ。
それで、いくつか厨房設備のある賃貸物件も内見しにいったことがある。
最初に見た西日暮里の物件は、賃料こそ安かったけれど、ドアから壁から電気、水道、便器まですべて取り外されていて、ほぼスケルトンだった。現状復帰するだけで大変な経費がかかりそうで、さすがに借りるのを却下した。
次に見た町屋の物件は、飲食店の集まる地下街のひとつで、なかなかおもしろそうな環境だったんだけど周囲に入居しているのがカラオケスナックばかりで、騒音的に問題がありそうだったので、やはりあきらめた(ヘッダーに挙げた写真がその物件)。
マニタ書房は、昼間は古本屋をやりながら酎ハイも飲める店として営業し、締め切りがある日は閉店後の夜も原稿を書こうと思っていたのでこの物件を借りることはしなかったのだが、いまでも心残りにはなっている。
町屋の飲み屋街の中にポツンとある古本屋。煮込みと古本が共存する珍書専門店。実現していたら東京の名所になっていたかもしれないな。