39 神保町編1 酔の助の謎のループとガンダーラ
神保町は古本マニアにとっての聖地であるので、以前から機会あるごとに足を運んでいた。ところが、2012年に自らマニタ書房を開業したことで、ぼくにとって神保町はたまに訪れる街から、自分の仕事場であり、アイデンティティを託せる街にもなった。
ぼくは酒飲みだから、その日の仕事が終わったら、家に帰る前にちょいと一杯やって行きたい。古本を買いに来ていただけの頃は、用が済んだら電車に乗って、馴染みの酒場や地元の酒場へ向かうのが常だった。しかし、神保町が「地元」になった身としては、できることなら神保町で飲みたい。それで、古本屋が軒を連ねていない裏通りを徘徊するようになった。
ここでぼくはガッカリすることになる。神保町には、ぼくが「いい!」と思える酒場がほとんどなかったのだ。
あえて挙げるなら、三省堂脇の「兵六」と、小川町の「みますや」。どちらも居酒屋マニアを唸らせる名店だが、名店すぎてぼくの趣味には合わなかった。ちょっと落ち着かないのだ。もう少し“ゆるい店”がいい。加賀屋グループの流れを汲む「加賀亭みなみ」も「加賀廣」も好きだったけど、やっぱりちょっと違う。
そんなふうにして、ああでもない、こうでもないと飲み歩いていてたどり着いたのが「酔の助」だった。マニタ書房から徒歩で30秒。天国はこんな近くにあったのか。
ぼくはゲーセン野郎でもあったから、神保町にレトロゲームがどれでも50円で遊べるゲームコーナー「ミッキー」という店があるのは知っていた。古びたビルの2階に重いゲーム筐体がぎっしり。元は和風喫茶を改装した店なので、店内には瓦屋根付きの壁があったりする変な店だった。店名は「ミッキー」だけど、店頭の看板はミッキーの文字の下に白いプラ板が貼られている。そこに何と書かれていたのかもぼくは知っている。そして、ミッキーが入居しているビルの1階が、居酒屋「酔の助」だった。
ビル自体が古いため、酔の助の店内もかなり年季が入っている。歩くと床がギシギシいう。店内はそれほど広くはなく、テーブルが10席ほど。カウンターもあるが荷物置きになっていて、ほとんど機能していない。
店内はそれほど広くはない……というのが初めて訪れた時の第一印象だったのだが、すぐにそれがひっくり返される。
入り口付近のテーブル席で友人と飲み始めたら、ドアがガラッと開いて大学生風の客が数人ほど入ってきた。先頭の若者が「予約した○○なんですけど……」と言うと、店員さんが「どうぞ奥へ~」と促す。そうか、奥にも席があるのか、とぼくは納得して飲み始めたのだが、ゾロゾロと入ってくる学生の列がなかなか途切れない。10人、20人、30人……。
えっ? えっ? えっ?
キツネにつままれたような気持ち。これ、何かのドッキリ? まさか裏口からそのまま出て、店の外をぐるりと回ってまた入ってきてない? コントかよ!
その後、トイレに行くため奥へ行ってみたら、手前のフロアからは見えない位置に、すごく広いお座敷が広がっていたのだ。
神保町周辺には明治大学をはじめ、専修大、共立女子、電機大など大学キャンパスも多い。そんな学生たちが新歓コンパやらサークルの飲み会やらで、酔の助の奥座敷を便利に使っていたいたというわけだ。
酔の助は、壁にメニューがペタペタ貼られていて、その光景がいかにも居酒屋という感じを醸しており、映画やドラマのロケ地としてもよく利用されていた。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』のロケ地として名前を知った人も多いだろう。映画では『新聞記者』『ヒメアノ~ル』『舟を編む』『宮本から君へ』などでも使われている。奥座敷を利用して落語会なんかもやっていたから、店主がそういうテレビや芸能方面とつながりがあったのかもしれない。
壁に貼られたメニューの中で、ひときわ目立っていたのが「古代岩塩ピザ、ガンダーラ」だ。クリスピーたいぷの薄い生地にブルーチーズを乗せ、岩塩で軽く味付けしてある。値段はたしか500円くらい。安くて、すぐに出てきて、おまけにうまい。酔の助に行ったときは必ず頼んでたな。
お酒はいつもホッピーと、途中からは燗酒を頼むことが多かったが、あるとき隣のテーブル客がハイリキのプレーン味のデカ瓶(メニューには無い)を飲んでるのを見て、あわてて頼んだことがある。聞いてみると、酒の卸しかんなんかの営業さんだった。
そんな大好きだった酔の助も、マニタ書房が神保町を去ったあと、2020年5月28日に40年間の幕を閉じた。店頭のでかい赤提灯は、やはり神保町に根を張る出版社・東京キララ社が酔の助遺産として大切に保管している。