「幼さ」との対峙。
良いアイデアを思いついた。
が、今までなかった理由に気がつき、振り出しに戻った。
そう。今まで誰もそれを変えなかったということは、かえなかったなりの理由があるということで、逆に言えば、変えてしまったら起こるリスクというものがあるのだ。
だから、その良いアイデアというのは、一件、表面上はすごく良いものであるように見えるけれども、よくよく考えると、決して良いアイデアとは言えないのだ。
これは違うな、と、何かに対して思うことがある。そういうとき、どうして、と思う。どうしてこうなのか、ああなのか。そういうことを、最近は考えるようになった。
小学生の時のこと。
難しい質問された私は、分からないことに対して、分からないですと答えた。すると、物事にはすべて理由があるのだ、と大人に一喝された。
時々、その時のことを思い出す。
あの頃の私は、あまりに幼かった。いろいろな意味で。もちろん、小学生だったという年齢的な幼さだったり、経験の希薄さ(いまもそんなこと、言えるほどの経験はしていないように思うが)だったり。いちばんは、精神的な幼さが、今よりも遥にあったように思う。
私は、「幼い」ということについて、たまに考える。幼さと対峙するとき、私は、私の過去や現在の幼さに直面する。ここから逃げ出したくなって防衛機制をするわけであるから、それもまた幼いと思う。
私のなかにある、幼い、というこの揺れを、もっと書きたいのかもしれないと、ふと思う。まったく関係ないことをしていたのだけれど、いま、新たな発見があった、ということを、ここに記しておくことにする。
まぶたが重くなってきた。やっぱりここに何かを書くと眠ることができる。
おやすみなさい。
みんなもいい夢見てね。
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