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大学生活から得た学びを卒業時に大雑把に振り返ってみた

 大学生活は中学校高校の時と違って受験勉強から解放されているので、割と時間的なゆとりが多く折に触れてたくさんの文章を書くことができた。その時々の記憶やその捉え方を書き残しておけば、いつか振り返った時に新たな発見があるのではないかと、そんな将来への期待を込めて書いていた。

 過去の出来事の捉え方や解釈を、まるで赤の他人の人生を見るように再評価するという訓練のことを認知行動療法と言う。これを習慣化して積み重ねることが、メンタルヘルスを維持する上で役に立つという研究がある。文章に書き残すという営みと、それらを後から振り返ることはとても理にかなっていることだなと感じる。それと共に、当時噛んだ苦虫の味は今も同じ味を感じるものなのかを知りたい欲求がある。自分自身の記憶経験の枠組みのアップデートを辿れることの興味だ。当時の捉え方と今の捉え方で解釈が同じところ、違うところ、上書きされたところは何なのか、進む筆に身を任せてそれらを創発できればとても良い振り返りになりそうだ。

 大学一年はサークルに没入して最後は人智を超越した力によってフェードアウトすることになった。当時は、社会経験などほとんど無い状況だったので、その経験を誘発した環境が一般的に受け入れられるものなのかを比較したりして知ることが叶わなかった。なので、起こった出来事を捉える術がなく悶々とした感情を長く引きずることになった。その間はネガティブな感情を抱くことが多かったが、それは半強制的に思考を深く巡らす習慣へと繋がった。その習慣は結果として過去の自分の環境を常に想起し続けることになり、自我や価値観の確立、それらの言語化を促進することになった。

 ちなみに、その経験を誘発した環境というものを"今"の自分が持つ知的枠組みで捉え直すならば、主に3つまとめられる。まず二つについて書く。一つは神の見えざる手によって引き起こされた仕方のない事象、もっと平たくいえば、自然現象が起こったものであり、そこに解釈の余地が無いという結論に落ち着いた見方である。続いて出てくる発想が、その自然現象はなぜ引き起こされたのかの思考を巡らすバタフライエフェクトを震源地を探すような見方である。二つ目の見方は単なる職業病である。これは深入りするとあまりにも長くなるので詳細は割愛する。無理やり一言にまとめるとすれば、日本社会の保守性の表出である。一つ目の見方は、心理学的にラディカルアクセプタンスという用語が使われており、ネガティブな事象をそのまま受容してしまうという考え方だ。ポジティブな経験には基本的にこの概念は当てはまらない。つまり、その経験がネガティブな経験であったことは純然たる事実として置かれ、ありのままを受け入れるのだ。あれから5年たち、様々なコミュニティに籍を置いてきたが、今はそれらの経験を持って当時の環境を比較して見ることができる。それを持って見てみても、依然として理解ができた試しは一度もない。理解できないものなので、自然現象の一種と捉えれば、気持ちを切り替えることができる。おそらく人類の大部分は、同じ経験を共有できたならば同じ感覚を持つはずである。一般社会では到底許容されることのない現象が当時起こっていたのだと最近になって改めて確信を深めている。尤も、今はそのような経験値を踏まえた上で物事を判断、解釈できるので冷静でいられるのである。当時はそれが叶わないという、人類にとって再現性の高い問題は解決されたわけではない。

 三つ目の見方は、そもそも上記のような人類にとって再現性の高い問題をどのようにして解決できるのかという話である。基本的には解決策は経験を持つ以外には無いので「生きる」ことである。そんな中でも、対症療法を適用するとすれば、それは「逃げ場を用意する」ことである。過去自分がメンタルが安定していた時と不安定だった時の違いは、逃げ場の有無にあったことは明白だった。周りの人の話を聞いてもほとんど同様の意見であった。例えば、学校で厳しい環境に遭ったとして、「いつでも言ってらっしゃい。転校も引っ越しも何でもできるから」と言う親か「怠けるな。学校には絶対行け。勉強を怠るな」と言う親では子供に与える影響は天と地の差である。また、家庭環境が凄惨だった場合に子供は逃れる自由の選択肢も持っていないので感覚としては永遠の業となる。子供達には、社会がしっかり逃げ場を用意してあげる価値観がスタンダードに広まってほしいなと強く願っているし、いつかは貢献したいなと思っている。子供にとっては、周囲のサポートが必須なのだが、大人になってしまった以上は、自己管理で生きていくしか無い。自分の責任で「逃げ場を用意する」必要がある。これができないと、例えば、ブラック企業で永遠に働き続けたり、何らかの搾取構造から脱出できない人生を歩むことになってしまいかねない。「逃げ場を用意する」ためには、勿論スキルアップやリスク分散のような概念が関わってくるのだが、忘れがちなのが「プライド」である。「せっかく今までやってきた」「自分はこれしかない」「逃げるのは恥ずかしい」「落ちこぼれで惨めな気分になりたくない」といったプライドは、逃げることを困難にしてしまう。長い人生、逃げることは役に立つこともあるものだ。そもそも逃げたくなるような環境に居るのであれば逃げるのが自然なのだが、上記の人間社会の高度なプライドによってそれが押しつぶされてしまう。では、どうすればプライドを捨てられるのかという点に関して、個人的には二つ意見を持っている。一つは、本末転倒な話だが、逃げても安心な環境に幼少期から置かれていて、逃げることを厭わない人格を手に入れられた場合だ。もう一つは、痛みを伴うのだが半強制的に挫折経験を得ることだ。二つとも「」が絡んでくるが、後者の方がまだ個人の選択によって挽回の余地があるのだと思う。

 サークル生活を終えた後は授業とバイトを大人しく続けるだけの普通の理系大学生を続けていた。当時は、小学生の頃のリーマンショックによる不景気と家庭環境への打撃の印象が強く、安定=大企業という図式を信奉していた。なので、いずれはそのような人生を歩むことが最適解であると考えていたし、それを実現できる学歴を努力して掴み取ったんだという自負もあった。それをさらに確実なものにする(新卒カードの確度を上げる)ことと、大学生活の不完全燃焼感を満たすために院進学を決めた。その後、価値観がひっくり返るような経験をすることになるとは、人生万事塞翁が馬である。生きてみる価値は大いにあるので、瀬戸際にある人は踏みとどまって新しい世界に飛び込んでほしい。

 大学4年の頃にプログラミングスクールのインターンに参加した。一言で振り返ると直近の人生における最大の好転の契機だった。悶々とした日々の思考の蓄積や価値観をアップデートし、さらに新たな価値観や反対の価値観に出会うのだった。その中で代表的なものを二つ取り上げたい。一つは、「心理的安全性」もう一つは「市場原理によるキャリア選択」である。

 「心理的安全性」の概念に初めて出会い、衝撃を受けた感覚があったのだが、それは過去の経験を誘発した環境を真っ向から否定するものだったからだ。ある意味「環境のせいにする」という過去の他責思考を正当化できてしまった体験でもあった。過去の経験というのは、例えば、小学校時代の野球チームや、中高の部活、大学のサークル、幼い頃に見たブラック企業の研修の様子を指す。当時の捉え方は、「成果を出すためには厳しい環境に耐える」ということが当たり前であり、成果のためのほとんど唯一の解のように思っていた。しかし、「心理的安全性」という概念に出会うことで、リラックスしながら安心して報連相ができ、理不尽に怒られることもなく萎縮することもなく自己表現できる、そんな幸せに満ちた環境でも多大な成果を上げることができることを知った。これは日本社会においてもどんどん普遍的になってきていることを強く感じる。おそらく私の世代が体罰やハラスメントが常態化していた時代の最後の世代だったのかもしれないなぁと思ったりしている。そして、この体験は就職軸や、人生の大きな軸になることはほとんど確定事項である。それが将来どのような形で表出するのかは、お楽しみに取っておきたい。

 もう一つの「市場原理によるキャリア選択」は、ある意味結果論だった。たまたまプログラミングスクールに目をつけたおかげで、新卒就活時にエンジニアという職種に出会うことができた。学部の頃は、SIerに代表されるような大企業に行くことを考えていた。しかし、労働市場も市場の原理によって、つまり供給と需要の偏りでどちらかに恵みが生まれる。それを考えたときに、自分でスキルを伸ばしつつ良い労働体験に恵まれ、低いリスクを実現できる職業があるのだという発想に至ることができた。この発想は色々な分野に応用可能だなぁという実感がある。また、この価値観に出会えたのは学部時代の経済学の授業をしっかり履修した積み重ねに寄るのかもしれないなと思うところがある。周りの学生と話をしていると、意外とこの考え方を認知して、行動のベースにしている人は少ないような気がする。大人が「勉強をしなさい」と言う理由はなんとなく理解できる。その後、修士課程の学生生活を踏まえて改めて感じることがあった。それは、エンジニアという職種と対照的な環境であったからだ。エンジニアは、人手不足が叫ばれ求人倍率が20倍に迫るような職業だ。そのため、待遇や給与水準がどんどん是正(向上)していっている。対照的に現代の博士は、大学教員の一つのポストを巡って2,3桁の競争を勝ち抜かなければならない職業だ。学生時代に最も優秀だった人々がポストにつけず困窮に喘いでしまっている。つまり、その人の能力や努力量が、ライフイベントに代表されるような人生を円滑に進める上で占めるウエイトは思ったほど大きくない。尤も世間体から完全に解放された理想的な生き方ができる人は、自分の好きなことだけ突き詰める生き方が幸せなのだと思う。とはいえ、多くの人は世間体からそんなに容易く解脱できるものではない。世間体獲得のための金銭面を十分に満たすには、需給バランスの偏りをうまく利用できれば楽だ。世間の人たちがよく言う「努力は報われるとは限らない」と言うのは、供給過多になっている現場によく当てはまる事象なのだと思う。労働市場から切り離された公務員系の職業に関しては、一部例外があるのかもしれない。

 大雑把に大学生活から得た学びを振り返ってみた。自分に向けて書いている文章なのだけど、誰かの役に立つことがもしあれば、とてもラッキーなことである。


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