私は何者か?
おはようございます。こんにちは。こんばんは。これを読んでいる読者さんはおそらく私のことをご存じかと思います。突然ですが、私は色々な人生について考えることが好きです。自伝を書いています。大学1年の終り頃、過度なストレスから体を壊し、その後家でゆっくりする時間が多々ありました。また、折に触れて新しい人と出会い、語り合い、また、小中同窓会に招待され、様々な人たちと人生について語り合ったりする中で、自分の今までの20年間は何だったのだろう?比較できるものはないけれど、辛いことが多かった気がするなぁとふと思いました。自分は何なのか?自分の人格はどのように形成されてきたのか?を知りたくなりました。そこで、自伝なるものを書いて整理し、人に伝えて共有したいという欲求が生まれました。自伝なる類のものは、現実には話す機会もあまりなく、しかも暗い話ばかりなので、楽しい雰囲気を壊してしまうことになりかねないという事情がありました。過去の楽しい思い出話や、表面的な冗談の言い合い、近況報告、趣味、属組織的な語り合いを中心とした友人たちとの会話の中に、付け入るスキなどありませんでした。しかしながら、最近はいつまでも隠し続けることがかえって心苦しいのではないか?と思うようになりました。実際に、一部の人には話したりしているのですが、少しばかり肩の荷が軽くなったような感覚を覚えました。また、トラウマのような記憶、経験、感情も一部はあるのですが、時間の経過に連れてそれらも薄れてきたということ、昔の話だからそこまで周りに気を使われずに済むということから、積極的に発信していこうという思いに至りました。これが、ほぼほぼ個人的な趣味ですが、自伝を書くに至った経緯であります。このページはその要約に当たります。(の割に長め)
出自
私は中国の新疆ウイグル自治区で生まれました。一人っ子。生まれてすぐ日本に移住し、家族3人の暮らしが始まりました。(日本に移住した理由は正確なところは分かりません)。父親の大学の関係で始めは九州に住んでいたそうです。物心ついた時から両親はしょっちゅう喧嘩ばかりしており、家の中はしばしば怒鳴り声が響き渡りました。恐らく、今でもこの感覚が影を落としている部分があるのだと思います。
小3で転校した話
幼稚園から千葉県松戸市に住み始めました。決して裕福ではないけれど、狭い家で慎ましい生活を送っていました。一人っ子でペットもいないので、寂しかったのか、ほぼ毎日友達と外で遊ぶのがただただ楽しい日々でした。小学校3年の夏、生活指導が甘いという理不尽な理由だけで転校させられました。ちびっこだった当時は、近所の世界が100%の居場所だったので、相当なショックがありました。無論、半狂乱になりながら抵抗し、一カ月間毎日のように、一生分の涙を流した記憶があります。人はたくさん泣くと顔が変わるらしいです。ある意味引き裂かれた当時の友人たちとは、それ以降全く連絡を取っていません。
小5の家庭環境
その後東京都足立区での生活が始まりました。全く知り合いがいない中、不安が9割を占めていたけれど、良い友人とクラスメイトに恵まれました。今度は、人生観が大きく構築されるきっかけとなる出来事が起こります。小学校5年生の頃、父親が勤め先をクビになり、何を血迷ったか家の貯金をすべて使って会社を設立しました。その頃、両親は激しく喧嘩し、その後およそ一年間、”一度も”口を利くことはありませんでした。いわゆる、家庭内別居状態だったわけですが、子供にとっては、家に帰るたびに紛争地帯に赴くような気持ちで、相当精神的に疲弊した記憶があります。母親のパート収入が生活の基盤でした。とはいえ、しばらくしてからぼちぼち父親から収入が入ってくると、家庭の温もりが戻ってきました。この経験が脳裏に刻まれて単純にも「勉強しなくちゃ!」と強く決心しました。とりあえず、勉強ができれば、良い生活が手に入るものだと考えていました。
中学時代
地元の中学校に入学しました。部活(小学生の頃からやっていたバスケ)と勉強にただただ全力で無我夢中になり取り組みました。このモチベーションの源泉は前述の経験にあるのだと思います。そして、これは今でも価値観の中に大きな部分を占めています。(おこがましいですが、リアルな話、将来の夢は幸せな家庭を築くことです。)学校ではリーダーのポジションを求められたりしてきつかったけれど、部活と勉強それぞれで満足のいく結果を得ることができました。
高校時代
華々しい気持ちで第一志望の高校に入学しました。バスケ部に入りました。しかし、夏休み明けの練習で、人の足の上に着地し、左足首を骨折しました(くるぶしに半分くらいの大きなひび)。全治およそ半年近い重症でした。3か月くらいギプスをはめて生活していました。その頃、移動すらままならない状態でも部活に見学に行っていたのですが、それを母親に咎められ、部活に行けなくなりました。それからというもの部活の一部の人からは、「どうせ仮病だろ、サボんなよ」と言わんばかりに、仲間外れと嫌悪感をむき出しにした言動を浴びせられることがありました(校舎内ですれ違うたびに舌打ちされる、ギプスの左足を蹴られる等)。結局、部活に復帰する体力と気力を失い、退部しました。それでも、部活の大部分の人たちは、今まで通り優しく接してくれました。落ち込んでいたけれど、幸運にもクラスメイトの友人に恵まれ、受験勉強も励まし合いながら、最後まで楽しい日々を送ることができました。
大学生前半
第二志望の大学の理工学部に入学しました。元からの友人は一人も周りにいなかったけれど、新しい生活が始まると思うととてもワクワクしました。英語のサークルに入りました。一年間は毎日のようにサークルに出続け、大変ではあったけれど、充実した日々のように感じていました。しかし、一年最後の役職を継ぐ時期に、上級生から肉体的、精神的に限界まで追い詰められ、立ち直れなくなりました。責任ある立場であったはずなのに、サークルに行く気力を失いました。かなり迷惑を掛けました。しかし、いつまでも落ち込んでいてはいけないと、若い貴重な時間を棒に振ってはいけないと危機感を持った私は、色々なことに挑戦してみようと一人で外の世界に出ました。新しく出会った色々な人と語り合ったりして、刺激になることも多かったのですが、時には苦い経験もしました。たまに、小中高の友人たちと交流を続けたりしました。大学の授業は、落ち込んでいた日々でも這いつくばりながら最低限以上こなし続けました。サークルでのショックを引きずっていた私は、他人が友人たちに囲まれながらも楽しそうに生活している、明るい人生を送ってきたのを見聞きすると、厭世的な気分を禁じえなくなったりもしました。その悪い流れを未だ断ち切れない気持ちも正直少しあります。
まとめ
人生は不思議だなと思います。一寸先が闇で、予想もしない未来にたどり着いたりします。例えば、小学校3年生で転校していなければ、全く異なる青年時代を歩んだことでしょう。小学校5年生の苛烈な家庭環境の経験が無ければ、必死に勉強することはなかっただろうし、良い高校、良い大学、その中で出会ってきた素敵な人たちを一生知らなかったのかもしれません。高校で部活を続けていれば、クラスメイトの素敵な友人たちと仲良くなっていなかったのかもしれません。大学でサークルを続けていれば、考え方がサークル一色に塗られていたのかもしれません。いわんや、両親が日本に来ていなければ、こんな素敵な日本文化を一生知らなかったのかもしれません。世界線という最近はやりの陳腐な言葉を借りるならば、色々な世界線を想像すればするほど、悔恨と愉快さが共存する不思議な気分になります。今の自分は過去の全ての記憶・経験・感情の唯一無二の結晶なのだと思います。その点に関しては、誇りに思えるようにしたいです。酔いしれた拙い文章ですが長らくお読みいただきありがとうございました。
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