5-中学時代
私の中学時代の記憶といえば5割勉強、4割部活、1割学級委員会の活動に占められると言っても過言ではない。自らそのように望んだのもあるが、それぞれの活動により自由時間がほぼ無い日々で、かつ精神的なプレッシャーを多く抱え負担の大きい中学時代だったが、総じて充実した記憶に包まれている。
幸運か不幸か、小学生の頃に家庭の荒廃、紛争地化、冷戦化を体験したことによって、中学に入る頃には「勉強しなければいけない」という硬い気持ちが出来上がっていた。世間知らずながら、とりあえず勉強ができれば父親と家庭の状況とは異なり将来は明るい未来が待っていると信じ狂信的に勉学に励んだ。
塾に通わなければ高校受験でトップは狙えないことは知っていたから、お金が無いことは承知の上だったが、親を説き伏せて塾に通わせてもらった。近所には残念ながらレベルの高い授業を行っているクラスが無かったため、最寄りの西新井から北千住や西日暮里まで通っていた。
勉強だけではなく部活(バスケ)にも精を出した。成長が他人よりも早かったため、当時は背が高く優遇され、その意味では運が良かったなと思っている。しかしながら、練習は、質・量ともに生半可なものではなかった。毎日行われる朝練と放課後練、休日の長時間の練習は、取り組むだけで相当疲弊した。
特にひたすら走り続ける練習は非常にきつく、練習前はノイローゼ気味で、辞めれば家でのんびりできる、吐きそうだと先生に言えば休憩できると目がくらんだこともあったけど、少しばかりの意地と、何より、バスケと仲間たちと触れ合える時間が幸せだったから続けることができたのだと思う。
最も印象に残っている瞬間といえば、中2のときの新人大会であった。都大会を目標にしてハードに練習していたわけだが、本当に実現できるとは夢にも思っていなかった。ある試合、残り数十秒で同点のシュートを決めた瞬間の大歓声と体の震えは今でも鮮明に覚えている。
部活ばかりでは、勉強が手につかないような気もするが、むしろメリハリがついて良かったのでは?と思う節がある。何もない休日の方がのんびりして生産性が落ちるのは多くの人が納得できるだろう。朝練、学校の授業、部活、塾、宿題と平日の時間はほぼ全てルーティーン的に何かに取り組んでいた。
地道に勉強していた甲斐あってか、定期テストでは常に学年1番だった。同級生から羨望のまなざしを向けられることが妙に気持ちよく、良いモチベーションにつながった。「才能だろ」と言われることもあったが、勉強にかける時間も誰にも負けた気がしなかった。幸い嫌われるキャラでは無かった。
また、記憶法など勉強法も自分なりに常に研究していた。中学の勉強内容は、脳にいかに定着させるかが最も重要だった。赤シートを用いたり、英単語カードをランダムにしたり、自分で歴史の問題を作ったり、復習する日をあえて一日ずらしたりetc. それらは今、教育系のバイトでとても役立っている。
基本的には学校で学ぶ英語と数学はあまりにも簡単だったため、内職をしていた。授業中勝手な行動をすると、先生たちは内申や調査書を盾に指摘してくるが、「全て終わりました」と言って、許可をもらっていた。主に計算練習や英単語に費やしたが、とても価値のある時間だったことは言うまでもない。
塾では、非常に分かりやすく熱心な良い先生に教わることができて幸運だったように思う。中3のときは週4で塾に通っていたが、問題集の質も高く、かつ入試レベルを超えた問題も扱っていて、非常に面白かった。早稲田アカデミーの同級生には負けるかという気持ちで、市進学院に通い詰めていた。
しかしながら、勉強のモチベーションを削がれる要因の1つにライバルが居ないという事実があった。学校では、失礼ながら周りは程度の低い問題に悩んでいるなと感じ、勉強面に関しては、心理的に距離をおくようにしていたし、塾でもクラスメイトと話すことは一切なかった。妙なプライドだった。
受験勉強に関しては孤独な戦いだった。孤独な状況でも努力ができるくらいに強烈なモチベーションがあったということだ。その源泉は、小学校時代の体験にある。非常に不幸な出来事だったという見方もできるし、反骨心が芽生えるきっかけだったという肯定的な見方もできる。結果論ではあるけれども。
それらと並行して学級委員など、クラス活動にも精を出した。精を出さなければならない立場に自然になっていた。もともとは学級委員はだれもやりたがらないから、成績が1番良いという知名度によって推薦で選ばれたし、公立中学校の学級委員など、良いことなど1つもない。これは断言できる。
まず、職務をしっかり遂行すればするほど、同級生に嫌われる。楽しくお喋りしている最中、「静かに」と大声で言われたら腹が立つのは仕方がない。かといってさぼれば今度は先生が内申と調査書を盾にしつこく指摘してくる。先生たちによってスケープゴートに仕立て上げられるのだ。
また、音楽の先生に関しては完全に舐められていたから、授業中生徒の集中力は散漫しきっていた。合唱コンクールの練習など、声変わりで声を出しにくい上に、恥ずかしがって誰も歌ってくれない中、先導する立場の身としては心苦しいことこの上なかった。やんちゃな生徒に限って歌声は大きい…
このように学級委員としての経験は、窮屈な身のこなしを学んだのみで、本来の人間力が上がるものでもない。何も対価が発生しない立場で公立中学校の先生の職務を肩代わりするという重責を背負わされる。それは生徒もしくは先生、どちらから嫌われるかを選べというゲームなのである。
さて、部活も引退し、落ち着いて受験勉強できる時期に入ったわけだが、この時期は非常に楽に感じた。なぜなら、エアコンのきいた快適な部屋で勉強だけすれば良かったからである。勉強を悩ませる煩悩は蒸発していたが、帰り道、日暮里駅でいちゃつく高校生カップルを目撃したときは露点を迎えかけた。
肝心の受験では志望した高校全てに合格することができた。一人で千葉県や東京の中心、西東京に出かけたときは、小旅行に行くみたいな気分でとてもワクワクしたのを覚えている。これからは、より志の高い仲間たちと明るい未来を歩んでいけるんだという希望に満ち溢れていた。
冒頭には充実した記憶であると書いた。成果という事実に加え、熱中して物事に取り組んだ経験によるものだと思う。もう一つは毎日気の合う仲間たちと触れ合ったことだ。やはり、人間は人との交流によって生きた心地を感じるのである。これを噛みしめていつかこのつづきの話を書けるようにしたい。
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