2-大学生前半

 晴れて慶應理工学部に入学できた。勉強以外の面でも、サークルやバイトなど新しい世界が始まると思うとものすごくワクワクした。体育会はちょっと違うなぁ、でも何かに打ち込みたいよな、友達たくさん欲しいな、何より成長したいよな、そんな時にたまたま”英語”のサークルと出会ったのだった。

 始めは勉強やバイトなどを頑張って、サークルは週に2日くらい行ければ良いよなと考えていた。しかし、気が付いてみたら毎日のように放課後、活動に明け暮れていた。勉強やバイトが疎かになりがちな面もあったが、気の合う仲間がたくさんできたし忙しくも毎日楽しく充実した日々だった。

 気が付いたら夏休みもサークル活動でほぼ埋まっていた。活動の無い日でさえ、サークルの仲間と出かけたりするほどだった。その後、合宿や大会に参加して”英語ディベート”にとても興味を持った。英語力の向上はもちろん、何かに打ち込みたいという気持ち、そしてたくさんの気の合う仲間がいたからだ。

 後期は”英語ディベート”の活動にのめりこんだ。そのために授業をさぼったり、登下校の最中でさえ練習したりするくらいだった。12月は4週連続で週末に試合をした。生活の7,8割は”英語ディベート”をしていた。その影響か単位を落としたし、お金も無くなったし、他の色々なことを犠牲にした。

 勉強が疎かになってしまった後ろめたさは常に抱えていたけど、物事に打ち込むことができる楽しさを久しぶりに感じていた。最後まで”英語ディベート”をやり遂げよう、0から自分だけの世界を構築して勝ちたい、この仲間たちとこれからも大学生活を謳歌していきたい、そんな思いが膨れていた。

 活動と並行しながら突然、来年の役職の話が私のところに舞い降りてきた。「”総務”をやってくれよ」と仲間に頼まれたのだ。しかし総務は激務であるという噂話が絶えなかったから、はじめは迷った。周りはどうしてもやりたくないと言い張るし、周りに押されて私がやるという雰囲気ができていた。

 そんなある日、総会というものがあり参加することとなった。組織であればどこでも活動内容を考える会議を開くわけだけど、このサークルの総会は初めて参加した私にとっては若干奇異に映ることがたくさんあった。まあこれも慣習とか文化の内なんだろうと考え、そこまで気にしてはいなかった。

 総会の期間中、先輩から直に色々な話を聞くことができた。「総務は確かに大変だが、良い面悪い面含めて学ぶことはたくさんある。私はやってて本当に良かったと思っている」という話を聞き、印象に残った。他の人たちはやる気なさそうだし、せっかくだからやってみようかな、という思いが膨らんできた。

 12月末仲間たちとディズニーランドに行った。その夕方、突然他の仲間から電話がかかってきた。暗に「総務を降りてくれないか」と説得されていることはすぐ気づいた。「明日まで候補者を確定するから今決めてくれ」と。私は心の中ではやるつもりだったからその提案にその場で乗ることはできなかった。

 明くる日、他の仲間たちと面談をした。「明日までに他の候補者より自分が総務に向いていると思う点をなるべく多く挙げて、その理由を書いてくれ」と言われた。気の合う仲間だったからとても心苦しい作業だった。でもこれもこのサークルでは普通のことなのだろうと思い、心を鬼にして書いた。

 そして、総務をやるということが決まった。学事、バイト、ディベートの活動、サークル全体の活動、いくら時間があっても足りないような日々があっという間に過ぎた。そんなある日、総務としての具体的な仕事内容と独自の考え方に関する話が上級生からあった。想像もしていない内容に少しうろたえた。

 総務の仕事内容というのは、”管理する”という理解でいた。自分が担当する他の役職(自分の場合は3人)がしっかり仕事をしているかどうか、最悪自分が代わりにやれるようにするということ。そしてこのサークル独自の、問題を発見し解決するために”反省文”を書いて実行するというものだった。

 その話の後、新しく出てきた大量の概念などを十分に解釈咀嚼できていないまま、来期に向けた総会の前日を迎えた。何をもって十分とするかは総会が始まった後になって分かったことであるが。とりあえず総会までの短い間、大量の覚えることを覚え、担当の役職者の分含め資料や答弁の準備に取り組んだ。

 総会の前日、担当の役職者3人の内2人も連絡が取れないという状況が起こった。一人は事前にその可能性があると分かっていたから「少なくともこの時間は連絡取れるように」と話していた。実際はまばらにしか連絡が取れなかった。もう一人は、後から分かったことであるが出先でスマホを落としたと。

 彼らとほとんど連絡が取れないから、最悪の事態に備えて(答弁で管理責任を問われるのを回避しようとして)自分が代わりに本来彼らが出すべき資料の”体裁を整える作業”をしていた。そんな時、上級生から電話で「君の資料も不十分だ」という話を受け、10p近い内容を更新することとなった。

 それらの作業は終わりが見えなかった。しかし、”これが管理するということだ”と自分を戒め、明け方まで作業を続けていた。そしてほぼ徹夜で総会の初日を迎えることとなった。担当の役職者の一人が遅刻するも総会に来た。連絡が取れなかったから事故か何かかと心配したが、とりあえずほっとした。

 ほっとしたのも束の間、遅刻させてしまった反省文を書く課題を出された。このサークルで問題解決という名の反省文を作るときは、全て”自分の行動”に落とし込まなければならない。また全て100%の反省文を書かなければならないのである。管理対象の人の行動まで自分の行動で改善させなければならない。

 遅刻させてしまった反省文には膨大な時間を費やすことになった。書いて提出、また書き直して提出、何が正解なのか?そもそも正解はあるのか?この内容に意味はあるのか?根本的な部分で常に自問自答しながら取り組んでいた。また、何かミスするたびに新しく反省文が次々と追加されていった。

 これらの反省文を全て100%に仕上げられなければ、総会は終了できないと言われていたから、指示された通りに全てこなさなければと思った。期限までに提出できなかった反省、原因究明ができなかった反省、体裁を間違えた反省、自分の行動に落とし込めなかった反省etc…反省反省反省反省…

 反省文に費やす時間の半分くらいは”体裁を整える作業”であった。たった一文字でも指定された言葉遣いや形式を間違えたり、項目が足りないと詰めが甘いと言われた。初日も二日目も三日目も起きている時間の7,8割は反省文に費やした。何度書いても全て赤が返ってくるから終わりが見えなかった。

 上級生に聞きたいことはたくさんあった。しかし、こんなことも自分で考えられないで総務が務まるのか?と答弁で揚げ足を取られる気がしていたから、聞くのをためらった。Noとは言えなかった。自分の答弁は最後の方だったから、答弁を上手く乗り切ることを思うと最後までYesマンであり続けようとした。

 初日の夜と二日目の夜はおよそ2,3時間しか床に就けなかったと記憶している。起きている間は常にプレッシャーを抱え、常にパソコンの画面とにらめっこして十分な食料もありつけない状態で頭を無理やり動かし続けていた。だからかなり疲労がたまっていたと思われるが、かろうじて覚醒状態を維持していた。

 総会三日目に来てようやく答弁の機会が来た。頭は少しぼんやりしていたが淡々と質問に答えた。この時、ある上級生に「反省文も書けないのに総務ができるのか?」と反語的に聞かれたから思わず「できません」と言ってしまった。ここで「できる」と言い切れる機転さえあればと思うと…後の祭りである。

 もう一つ印象に残るやりとりがある。ディベートの大会に関する諸事務を他の人に任せていたのだが、大会参加のためのメールの宛名を間違えていたこと(後で分かったことだが)を強く詰問された。私は「送った」と報告を受けていたから大丈夫と思っていたが。毎回宛名まで全て確認しろという話なのか?

 というわけで次の日に答弁が持ち越されることとなった。明日までに”全て”の反省文を書ききることが絶対条件であった。しかし、今までの反省文に加え、”私の答弁”に関する反省がいくつか追加された。どう考えても一日で終わるわけはないのだが、その日の夜は仲間の家に泊まってがむしゃらに書いた。

 横になるスペースが無かったから座りながら寝ようとした。最後まで反省文は書ききれていないが、さすがに徹夜は無理だと本能的に悟った。しかし、三日連続でほぼ寝てないのにも関わらず、不安でよく眠れなかった。何もかもが不十分なまま、次の日の朝4日目の総会へと出向いた。

 約束の通りに全ての反省文は書き終えていなかったから、午前中は総会に来たみんな(50人くらい)を待たせて反省文を書く時間となった。そして内容に関して何が正解か分からないまま、どうしたらよいか分からないままとりあえず何とか全て提出までこぎつけた。受理されるかどうかは別問題であるが。

 そしてその状態で2回目の答弁が始まった。4日連続の睡眠不足と疲労で頭と呂律が全く回らないひどい答弁であった。相変わらず約束した通りに反省文は書けていないから、厳しく追及された。「体裁を間違えた反省文の体裁を間違えてどうするの?」とギャグのような展開になり、上級生の失笑を買った。

 気の知れた大勢の仲間たちの前で「お前は総務ができない」という説教を数時間にわたり受け続けた。「お前はここにいる50人の5時間分、”25万円”を無駄にした。どうしてくれるんだ」と言われた。自分を推してくれた先輩が泣いていた。仲間たちは上級生に「この人で信頼できる?」と聞かれていた。

 20人くらいいる役職者の中で私一人だけが投票の機会を得ることができなかった。上級生に「みんなに謝りな」と言われ答弁の直後、仲間たちへと謝罪しに回った。次回の総会まで”見定め期間とする”という話で決着した。私は意識が朦朧としていたから、起こった現実をよく実感できていなかった。

 次の日はまた別の内容の総会があったから、当然行く予定でいた。誰よりも行かなければいけない立場であった。目覚ましもセットしていたが、気づいたときには13時を回っていた。スマホに大量の電話がかかっていたが体が反応することは無かった。この瞬間に私は「みんなに合わせる顔は無いな」と悟った。

 たくさんの励ましのメッセージが来たが、本音で言っているのかどうか疑った。本当は「迷惑ばかりかけやがって、ふざけるな」とみんな思っているのでないかと感じた。高校時代バスケ部を途中で辞めた記憶が蘇った。この先どうしたら良いのだろう?私は一人でドツボにはまっていった。自尊心を失った。

 とりあえず、少し休めば回復してまた元気が出るだろうと思っていた。ところが全く元気にならなかった。今まで経験したことのないような気分だった。全ての物事に対してやる気が出なかった。現実逃避するために一日中布団の中でスマホを眺めるという一週間を過ごしていた。

 このままだと人生を棒に振ってしまうのではないかとまで思ってしまったから、藁にもすがるような思いで心療内科を受診した。元気が出る薬と睡眠薬をもらった。うつ病と診断された。主観に基づいた判断だから曖昧であるが、明らかに脳機能が低下しているということは実感できた。

 やる気が出ないだけでなく、もの忘れが異常に激しくなったからだ。たまに人と話したりするとき、さっきまで話していた内容を忘れて支離滅裂なことを言ってしまった。短期記憶が明らかにできなくなっていた。廃人のような休み期間を過ごした。感情表現の仕方も忘れた。枯れた涙しか出なかった。

 4月に入り、薬で睡眠をコントロールして這いつくばりながら大学へと通った。サークルの人たちには合わせる顔が無いと思っていたから、彼らを避けるように行動していた。バスケ部の人たちを避けていた高校時代と全く同じ状況だった。お金も無かったから、新しいバイトを始めた。

 バイト先では相変わらず短期記憶が持たないから、始めは物事を覚えられずたくさんミスして周りの人たちに迷惑をかけた。時間に余裕はあるはずなのに、大学の授業は休みがちで結果的に成績は下がる一方だった。外に出るのが億劫だった。何より居場所と感じていたコミュニティを失ったことが悲しかった。

 高校時代は全治4,5か月の怪我がきっかけでバスケ部を途中で辞め、毎日泣くような思いをした。仲間から裏切り者のレッテルを貼られ、さぼるなと非難された。その後、彼らを避けるように生活し、委縮するようになっていった。大学ではこれのリベンジだと思っていた矢先、同じことを繰り返してしまった。

 それでも新しくできた学科の友達、小学校・中学・高校時代の友人、勇気をもって飛び出してみた外の環境での交流、色々な人たちと関わる中で徐々に良くなってきた。また辛いけれども自分の過去を振り返ってみんなに伝えるという苦薬のおかげで今は段々肩が軽くなっている気がしている。

 長くなってしまったが、今振り返ってなるべく客観的に考えてみても、明らかに人道の範疇を超えた出来事であったと私は個人的に思う。このことに関して賛同を得られるかどうかは分からないが。少なくとも私が唯一望むのは、私と同じような思いをする人がもう二度と出てほしくないということだけである。

 コミュニティを途中でドロップアウトするというのは、経験してみなければなかなか分からないが深刻な精神的影響がある。私はもう三回も経験してるからうんざりしている。と言いながらまた繰り返すのかもしれない。その繰り返しの歴史を辿れば小学校三年生の頃までさかのぼることができる。

P.S
一年後、久しぶりに同期に誘われご飯に行った。その当時の核心的な話はできなかったけど、ある人に「反省文はその後の運営で役に立ったことはある?」と聞くと、「総会以降は一枚も書いてないよ」と返答された。私は反省文の内容が問題解決の手助けとなり、運営で役に立つものだと思っていた。私とその同期があれだけ労力を費やしたあの長い時間はいったい何だったんだろう?という疑念が未だに拭えない。意味があって、上級生はあえて厳しく高圧的な態度を取り、過度な課題を要求していたのであればその理由を問いたい。そして、反省文は問題解決の手段として生産的なのか?効率的なのか?未だ判然としていない。とりあえず、このままではモヤモヤする記憶が永遠と消えないで心の底に沈殿してしまっている。

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