今考えていることをまとめてみた20200422(21)
一年前
一年前の今日、突然自伝を書きたいという欲求が生まれ、書いていた。理由は3つある。
①単純に衝動的に書いてしまった側面がある。過去自分が背負ってきたものが、1人で抱えきれなくなってしまった。(少しばかり病んでいたように思う。)これをみんなと共有して、肩の荷を軽くしたいと思っていた。
②自分という人間は何者なのだろう?どのような記憶経験があってどのような考え、価値観、人格を持っているのかを、当時は自分でもあまり把握していなかった。これを把握して、将来の指針を決めたいと思うようになった。
③自分の過去は不幸なことが立て続けに起きすぎではないか?という気持ちがあった。あまりこういう話を他人としたこともないから、比較できるわけではないが、大人になるにつれ、周りを見てると自分の置かれてきた環境が特殊だったのだと気づくことが多くなってきた。コンプレックスや弱みだと思っていたこと、周りに気を使われるんじゃないかと、ひた隠しにしてきたことは、意外と貴重な経験であり、強みに変えられるのではないかと思った。思えば、少年時代から、「大人になってからの40年間を幸せに生きる!」という目標意識で過ごしてきたから、その初心を忘れかけていた。
大学2~3年生
大学2~3年生の間は個人的には物足りない日々であった。大学1年の頃、かなりコミットしていたサークルを"諸事情で"辞め、所属しているコミュニティと言えば、大学の学科でいつも仲良くしてる人たちと、バイトとたまに、昔の友人くらいだった。比較的アウトドア志向なタイプ(家の居心地があまり好きではない)なので、もう一つ自分の居場所と思えるコミュニティは無いかなと、いつも探して、見つけて、話を聞いて、これは違うなと思い、というのを何回か繰り返していた。
同時に「自分は何のために生きているのだろう?」という焦燥感に駆られてしまっていた。自分で判断するに、かなり病んでいたように思う。初めて、"自己肯定感"を意識するようになった。その原因の一つに"成功体験が足りていなかった"というものがあるような気がしていた。何か新しいことにチャレンジしたいと思っても結局悪い未来しか想像できない。これを変えるにはどうすれば良いのか?悶々として出た結論が、結局「成功体験を積むしかない」ことに至ったのだった。
プログラミングというが、最近は需要が増えているとニュースで頻繁に耳にする。個人的に向いているのではないか?という漠然な気持ちと、大学の授業等で学んで、苦痛に感じることが少なかった(楽しいと思える瞬間が割と多かった)ということから、プログラミングのコミュニティを探してみようという気持ちになった。将来の仕事にしてみるのも良いかもしれない。
そこである学生のプログラミングサークルを見つけた。学生にとってはややお金はかかるが、新しい出会いや成功体験を得て、生きる気力を取り戻せるのではないかと期待した。自己肯定感回復プログラムの一環と位置付けた。
過去の反省
今までの20年間は、結果として失敗が9割を占めていると感じている。環境のせいにするのは簡単で楽だが、自分の行動を変えない限り、未来に生かす(未来の自分と周りの人々を幸福にする)ことはできない。以下にいくつか反省点をあげる。反省というのはネガティブな言葉であるが、本来は、未来のポジティブにつながるヒントがたくさん詰まっている。その瞬間は不快に思うかもしれないけど、考えようによっては大人になってから40年間の人生の幸せを掴むためのチャンスでもある。今ちょうど新しいコミュニティでの生活が始まろうとしている。今までは失敗続きであったが、反省を生かした行動を、これを第一歩として取っていきたいと思っている。
①風通しの悪い組織を選んで所属してしまった
②自分の素直な気持ちを普段から伝えることをさぼっていた。(年上含めて、色々な人たちと腹を割って話せたり、意見を言える関係性を普段から築くことをしなかった。)
③家庭の雰囲気が悪かった
自分の経験上、色々な失敗の原因は、ほぼすべてこの3つの中に潜んでいる。
①組織とは何か?人々が協力して、補完し合って、10+10 = 100にできることが組織の強みである。風通しが悪ければ、結局10+10 = 20にしかならない。もしくは、一部の悪い人間によって、多くの人間の不幸と引き換えに甘い蜜を吸う手段として使われてしまう。
日本は元来儒教文化であるため、年上という理由だけで偉くなり、年下の人間は意見を言いにくい。部活などで体育会系に所属していた人はなおさらだ。人間は十人十色であり、それぞれの心の中には、アイデアの原石がシャボン玉のようにたくさん浮かんでは消えている。それらを全て無にしてしまう。非常にもったいないことだ。
だからこそ自分も含めて、年上になった人間はアファーマティブアクションのように気を使わないといけない。
悲しいかな、もし間違えてそのようないびつな風土のある組織に所属してしまった場合、年下の立場の人間がこれを変えることはほとんど不可能だ。これは想像に難くないだろう。
個人ができることは、どの組織に所属するか?を選択する段階から、信頼できる内通者からリアルな意見を聞いたり、情報収集すべきだ。そこで納得できる組織と出会うラッキーを掴み取りに行くことだ。
②色々なコミュニティにおいて、自分の素直な気持ちを普段から共有することは大切である。これをしないと、本当に話さないといけないような、いざというときに、話をすることをためらってしまう。特に、何かを断らないといけないような場面、自滅を防ぎたいような場面で役に立つ。
例えば、自分のキャパを超えた仕事をお願いされたとき、「こうこうこういう事情があるので、できません」と勇気をもって言うべき場面が時折起こり得るだろう。自分の中の優先順位はこれで、このような気持ちで取り組んでいるんだということが相手にも同意済みという状況であれば、関係を損なうことなく断ることができる。そうでなければ、「相手からの評判が落ちるのではないか?」という不安感と、過去特定の教育を受けて醸成されたボランティア的な責任感、義務感と合わさって、断れなくなってしまう。また、普段から関係性を築いていれば、他人にお願いすることもできるだろう。たまたま、耐えられれば問題は無いのだが、少なくとも僕は2回、これで自滅したことがある。
これからは、何か新しいコミュニティに属した後、初期の段階から、自己開示と正直な気持ちを臆することなく言っていく。noteやSNSでの発信もこの一環である。もし、これが受け入れてもらえないコミュニティだった場合は、去る。
③家庭環境は言わずもがな大切である。人生の内の半分、もしくはそれ以上は家庭環境で生活するし、そこから影響を受ける。これは子供に限らず、大人も同様だと思う。
しかし、子供の頃の家庭環境は本人の非ではないことがほとんどであるから、ややこしくなる。幸い、僕の場合は、一般的には道を踏み外すことなく、無事に育つことができた。このことは感謝しかない。また、良い悪い含めて色々な家庭での経験から、大人になってからどのような家庭を築きたいのか?を早い段階から考えるきっかけに転じることができた。
「あの人メンタル強いよね。」「僕は、私はちょっとメンタルが...」という会話をよくすると思う。メンタルは、属人的な強い弱いという話ではないと思う。「逃げ場があるか」これに尽きる。24時間365日プレッシャーに晒され続け未来への希望もない状況に置かれたら、どんな屈強と思える人間でも病むに決まっている。
「家庭」は、その逃げ場としての機能を厳守されるべきだ。もし、家庭が殺伐としていて、心が休まらない場所だった場合、その人は外に安らぎを求めるようになる。そうすると、その人は外で失敗することを恐れるようになる。外で失敗したら、自分の居場所を全て失くしてしまうからだ。その人にとって大きな機会損失になってしまう。
家庭の実権はやはり大人が握っているわけだから、大人はそこに細心の中を払うべきだし、コミュニケーションを積極的にとることを面倒くさがってはいけない。
人間の利己性
僕は、人間の本質的な部分や弱い部分を受け入れて、それを踏まえた行動や言葉を発する人の方が信頼できる。一例として、人間の利己性について書く。就活や入試において、「世の中に貢献したい」「困っている人を助けたい」という一般論的な綺麗ごとを並べる人たちに問いたい。「なぜ、あなたは他人のために努力をするのか?」仮に僕が人事だった場合、そこで、「自分のためだ」という答え方をした人の方が、動機としてしっかりしているなという評価をする。
ボランティア活動というのがある。思考実験をしてみよう。今、目の前に二つのボランティアの選択肢があるとする。
①そのボランティア活動は世間的に大きく認知されていて、例年その活動に参加した人は評判が良くなって就活等に生かされている。目の前にいる人々を直接助けることができる。
②そのボランティア活動は全て秘密裏に行われ、絶対に口外してはならない。また、そのことで救われた人たちはそのことに気づかない。感謝を受けることもない。
これの回答をすることによる世間体の変化はいったん置いておいて、正直に最初に思ったことはみんな共通であると思う。
本当に他者のために、という気持ちがあるのなら、無給でよいだろう。もし自分が死ぬことで他者を救うことができるという状況があったとして、選択肢が自分にあるのなら、みんな共通の思いを抱くだろう。
「情けは人のためならず」という諺があるが、本質をついているように思う。なぜ、他人のために尽くすことができるのかと言えば、自分にとってもそのことが幸福だし、未来に希望が生まれるからだ。
まず、無条件に人間は信頼できる人と接する際に幸福感を覚える。他人のためにとる行動は、他人との関係を密にしてくれる。さらに、自分のアドバイスによって、他人が成功して感謝を受けたりすると、自分の考え方は間違っていなかったんだと自己肯定感が上がるし、他者に必要とされているんだなという感情が生きる意味を与えてくれる。
やや、一般論的な話になるが、恩返しをしたいという欲求が人間にはある。なぜ人間は恩返しをしたいと思うのか?実は現時点では僕にはしっくりくる理由が見当たらない。しかし、あることは間違いない。他人に良くすることで、将来自分も他人から良くされることを期待する気持ちが、少なからず、根底にはあるはずだ。
自分のことを一切棚に上げて、「他者のため」と言う人は欺瞞に思えてしまう。そのような人に限って、(若干言葉は悪いが)人手不足の劣悪な業界に率先して関わろうとはしないのである。
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