
チャールダーシュ禁止令は本当に出たのか~革命に翻弄された踊り?~
「チャールダーシュ」はハンガリーを代表する踊り・音楽の一つで、2024年末にはユネスコ無形文化遺産に登録されたそうです。
そのチャールダーシュに関して、細かい表現にはブレがありますが「人気すぎてウィーンの宮廷で禁止令が出た」といったような説がネット上で見受けられます。
しかし、「禁止令が出た」という記述は、世界各国のWikipediaを見ると、日本語版くらいにしかありません。
すべての言語のWikipediaを見たわけではありませんが、ハンガリー語のWikipediaにも、ドイツ語のWikipediaにも書いていないのです。
もちろん、他の言語のWikipediaに書かれていないからその主張は誤りだ、というつもりはありません。一方で、Wikipediaに書かれているからその主張は正しい、とも言えないはずです。
この記事を書いている時点では、日本語版Wikipediaには禁止令に関する出典は書かれていません。
では、いったい何を根拠にして、「チャールダーシュには禁止令が出た」という説は発生したのか…?
この疑問を出発点にして、私の調べ物は始まりました。
そして、疑問の完全な解消とはなりませんでしたが、興味深い(再)発見が多々ありましたので、この記事ではその報告をしたいと思います。
第一章 禁止令説の根拠を検討する
チャールダーシュが禁止されていたことを示唆する文献は存在する
調べた結果、「チャールダーシュがウィーン宮廷で禁止されていた」ことを示唆する文献は存在することがわかりました。
その本は、オーストリア皇妃エリーザベトの伝記本、『麗しの皇妃エリザベト:オーストリア帝国の黄昏』、原題は『Élisabeth d'Autriche ou la Fatalité』です。
『Élisabeth d'Autriche ou la Fatalité』(著者:ジャン・デ・カール Jean de Cars)は1983年にフランスで出版されて、1984年には三保元による訳で日本語版が出版されました。
日本ではその後、1984年に文庫版、2003年に改版文庫版が出版されているので、読んだ人はそれなりに多いのではないでしょうか。
なお、禁止令についての描写はありませんが漫画版もあります。(『麗しの皇妃エリザベート』上・下 漫画:名香智子)
1984年出版の日本語版単行本は国立国会図書館で全文を読むことができます。そこから該当する箇所を下記に引用します。
また、ハンガリア民族蜂起の象徴とされているチャルダスの禁止令をといた一月十四日の舞踏会には、不意にハンガリア軽騎兵の軍服であらわれて、それまでややもすれば冷やかであった雰囲気をやわらげた。ハンガリアの人々のなかには「皇帝はもうすべてを許してくれた」とさえいうものもいた。
ハンガリア軽騎兵の軍服であらわれたのはオーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世のことです。
描かれている時代は、1848年のハンガリー蜂起の記憶がまだ色濃い1852年。宮廷舞踏会ではオーストリア皇帝は踊ることはない、という記述に続く箇所です。
皇帝がハンガリア軽騎兵の軍服であらわれたと書いてあるだけで、チャールダーシュを踊ったという描写ではありません。
同じ箇所はフランス語の原著ではどう書かれているのか、そちらも引用します。
De même, il rompt avec l'interdiction de la czardas, considérée comme emblème musical de la révolte hongroise. Au bal du 14 janvier, sans être attendu, il paraît en uniforme de hussard de Hongrie, s'attirant une sympathie jusque-là réticente. « L'empereur ne nous en veut plus », annoncent certains Hongrois.
ほぼ同じ意味ですがやや異なる点があります。
日本語版では"チャルダスの禁止令をといた一月十四日の舞踏会"と書いてありますが、フランス語原著では、"彼(オーストリア皇帝)は…チャールダーシュの禁止を破る。一月十四日の舞踏会で…ハンガリーの軽騎兵の制服を着て現れ…"というニュアンスです。
とにもかくにも、「チャールダーシュがウィーン宮廷で禁止されていた」ことを示唆する文献は存在しました。
ちなみに、今回の調べ物では『麗しの皇妃エリザベト』以外には禁止令について言及している本や資料は見つかりませんでした。
もし何かほかの資料をご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひ情報提供をお願いいたします。
裏付けとなる決定的な資料は見つけられず
原著にも日本語版にも、「禁止令」に関する箇所に出典情報はなく、どの資料を根拠にその記述が書かれたのかは分かりません。
原著の巻末には参考文献の一覧がありますが、本文検索ができる本の中には禁止令に関する記述は見つけられませんでした。
情報源の中には未公開資料(日記や個人的な資料など)があり、もしその未公開資料の中に禁止令に関する記述があるのだとするとお手上げです。
原著の参考文献を本記事の最後にリストアップしておくので、その道にお詳しい方がいらっしゃいましたらお力をお借りしたいところです。
ひとまずの報告・禁止令が出たとは断言できない
「チャールダーシュはウィーン宮廷で禁止されていた」ことを示す文献は存在することがわかりましたが、その裏付けとなるような一次資料は発見することができませんでした。
つまり、「チャールダーシュはウィーン宮廷で禁止されていたという説がある」とは言えますし、その出典もありますが、「禁止されていた」と断言はできない、という状況です。
なお、『麗しの皇妃エリザベト』では、「人気すぎて禁止された」のではなく、「ハンガリー蜂起に起因して、ハンガリー文化であるチャールダーシュが忌避されて禁止された」ことが理由であるとされています。
「人気すぎて」とか「その中毒性ゆえに」禁止されたというネット上の説は、理由の部分の根拠が今のところ見つけられていません。
第二章 チャールダーシュとはそもそも何か
第二章と第三章では、チャールダーシュに禁止令が出るということはそもそもあり得ることなのかということを、チャールダーシュと、ハンガリー・オーストリアの歴史を踏まえて検討していきます。
チャールダーシュの成立背景
チャールダーシュに関しては、主に「チャールダーシュの形成とその特性」(1982)大澤慶子 を参考にしつつ、他の参考文献と合わせて書いていきます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/buyougaku1978/1982/5/1982_5_33/_pdf/-char/ja
ハンガリーにはチャールダと呼ばれる居酒屋がありました。
庶民がチャールダで踊っていた踊りがハンガリー貴族によってアレンジされて、社交界のダンスで取り上げられたものがチャールダーシュと呼ばれるようになった、という由来が一般的な説だそうです。
csárda チャールダ(居酒屋)
csárdás チャールダーシュ
参考:「チャールダーシュの形成とその特性」(1982) 大澤慶子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/buyougaku1978/1982/5/1982_5_33/_pdf/-char/ja
チャールダーシュの前にヴェルブンコシュ、そしてジプシー楽団あり
チャールダーシュの登場以前、ハンガリーにはヴェルブンコシュという踊り・音楽がありました。
ヴェルブンコシュは18世紀末から19世紀にかけてハンガリー国外にも広まり、ヴェルブンコシュ風の音楽を作る作曲家も多く存在しました。
そして、18世紀中期にハンガリーに定住するようになったジプシーたちにルーツを持つ音楽も重要です。
ジプシー楽団はハンガリー国外の式典や舞踏会に招かれて演奏をすることもあり、ハイドンやシューベルトも彼らの演奏を聞いたということです。
つまり、チャールダーシュがいきなりハンガリー的なものとして広まったのではなく、すでにジプシー楽団の音楽やヴェルブンコシュが国外に広がって下地ができていた、ということです。
名だたる作曲家もハンガリー風の作品を作っています。
ハイドン(1732-1809)「ピアノ三重奏曲第39番」(1795)
ウェーバー(1786-1826)「アンダンテとハンガリー風ロンド」(1809)
シューベルト(1797-1828)「ハンガリー風ディヴェルティメント」(1824)
ヨハン・シュトラウスⅡ世(1825-1899)「ペシュトのチャールダーシュ」(1846)
参考:『ハンガリー音楽小史』(1969) ソボールツィ・ベンツェ / 訳 谷本一之/音楽之友社
参考:ハンガリー音楽の軌跡(2012) 大網明代
https://hyogo-u.repo.nii.ac.jp/record/6131/files/YV31401002.pdf
ワルツが大流行するなか登場したチャールダーシュ
1815年に開かれたウィーン会議をきっかけとして、19世紀前半のヨーロッパの舞踏会では、それまでよく踊られていたメヌエットに代わって、ワルツが大流行していました。
そんな状況下で、ハンガリー独自の民族的な伝統に関連した踊りとして登場したのがチャールダーシュだ、ということのようです。
参考:「チャールダーシュの形成とその特性」(1982) 大澤慶子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/buyougaku1978/1982/5/1982_5_33/_pdf/-char/ja
参考:「マティアス・ペルトの日記に見られる1814年〜1815年のウィーン会議と音楽-その2、舞踏会とワルツ」(2016) ジェラルド・グローマー
https://yamanashi.repo.nii.ac.jp/record/1174/files/24330418_1_225-232.pdf
参考:『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』(2003)加藤雅彦/NHK出版
第三章 オーストリアとハンガリーの歴史
以下、下記文献を参考にして書いていきます。
『ハンガリー革命史研究-東欧におけるナショナリズムと社会主義-』(1989)羽場久浘子/勁草書房
『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』(2003)加藤雅彦/NHK出版
『世界史B』(2007)尾形優・後藤明・桜井由躬雄・福井憲彦・本村凌二・山本秀之・西浜吉晴/東京書籍
『図説 ハンガリーの歴史』(2012)南塚信吾/河出書房新社
『詳説 世界史』(2024) 木村靖二・岸本美緒・小松久男・橋場弦/山川出版社
オーストリアの支配
ハンガリーは16世紀以来オスマン帝国の属国になっていましたが、オスマン帝国が第2次ウィーン包囲に失敗したあと結ばれたカルロヴィッツ条約(1699)により、今度はオーストリアに割譲されることになりました。
高まるハンガリーの民族意識
19世紀初めのハンガリーでは、エリート層の間に言語・文化的な「ネムゼット(民族)」という自覚が生じました。
1830年代には、ラテン語に代えてハンガリー語を公用化しようという運動が起こり、1836年、1844年と段階的にハンガリー語を公用語とする法律が制定されました。
その間に「ハンガリー語を話すものがハンガリー民族である」という意識が生み出されました。
一方で、ハンガリー語の公用化は、ハンガリー王国内の非ハンガリー人(スロヴァキア人、クロアチア人、ルーマニア人)の反発を生み、彼らの民族的自覚も呼び起こしました。
1840年代には中貴族のコッシュートらが政治的な力を強くしました。
コッシュートの運動は強烈なハンガリー民族意識に裏付けられており、ハンガリー国内の他の民族には警戒されていました。
1848年の革命
1848年は、ヨーロッパの諸民族が次々と蜂起・革命・改革運動を起こした年でした。
フランスでは二月革命が起こり、王が退位して共和政がスタートします。
その報せがヨーロッパ各地に伝わると民衆は次々と蜂起し、自由主義の運動が高揚しました。
ウィーンでは三月革命が起こり、宰相メッテルニヒは解任され、イタリア・ハンガリー・ベーメンなどで民族運動が一気に高まりました。
ハンガリー独立運動の失敗
1848年4月にはオーストリアで新内閣が発足し、その後、ハンガリーの自治権が強化されるような憲法の制定が認められることになりました。
しかし、それらの決定はハンガリー人にとって利益が大きいものであり、ハンガリー国内で抑圧されていた他の少数民族にとっては納得できないものでした。
各地の独立運動は次第に鎮圧されていき、ハンガリー国内ではオーストリア支持に回る民族が出て、さらにオーストリアがロシアの協力も得たことで、ハンガリーの独立運動は1849年には完全に鎮圧されてしまいました。
オーストリアの弱体化、そして妥協へ
しかし、各地の独立運動鎮圧後も火種は燻り続けていました。
各地でナショナリズムが台頭し、オーストリアは領域内の多数の民族をまとめることが困難になっていたのです。
さらに1850年代末から1860年代にかけて、オーストリアはイタリアやプロイセンに戦争で負け続けて、ドイツ統一から除外されることになりました。
そんな中、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世はハンガリー人の要求を受け入れて、1867年に遂にハンガリー王国の建設を認めました。
この決定は妥協、アウスグライヒと呼ばれています。
こうして「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が誕生し、この体制は1918年まで続くことになります。
しかし、ハンガリー政府が1868年に定めた「民族法」は、ハンガリー国内の諸民族にある程度の自言語使用を認めたものではあったものの、民族としての集団自治権は認めないものでした。
終章 チャールダーシュとオーストリア=ハンガリーとの歴史を重ね合わせてみると
このような歴史を踏まえて、『The History of the Hungarian Dance』(1936)Edith Weber Elekes という本を見てみます。
この本の内容を要約すると、
・1840年以前、ハンガリーで行われる舞踏会なのに自国の踊りが踊られないことに対する不満があった
・1840年くらいから、徐々にハンガリーの舞踏会でハンガリー民衆の踊りを取り上げる動きが出てきた
・舞踏会用に完成した踊りはチャールダーシュと呼ばれ、それはハンガリー民衆の踊りに由来するものだった
・ハンガリーの舞踏会では、ハンガリーの踊りはハンガリーの民族衣装を身につけて踊ることが義務とされた
・1848年の革命から1849年の鎮圧までは、ハンガリー軍の中でもチャールダーシュは好まれて踊られた
・革命が鎮圧されてからは、ハンガリーでの舞踏会もオーストリアの将校が開くことが多くなり、ハンガリーの踊りは踊られなくなった
・1860年代以降、ハンガリーの地位が向上し、再びチャールダーシュは踊られるようになった
ということになります。
※この本では「チャールダーシュ」と「ハンガリーの踊り」は分けて記述されているので、ハンガリーの踊り=チャールダーシュであるとは限らない、ということに注意してください。(「ハンガリーの踊り」がチャールダーシュを指していると思われる記述もあります)
この本の記述が事実であるかどうかはわかりませんし、「チャールダーシュ禁止令が出た」とも書いてありませんが、上述した歴史の流れととりあえず齟齬はないように見えます。
関連して、ライプツィヒの歴史ある音楽雑誌『Neue Zeitschrift für Musik』の1852年の記事にも興味深い記述があります。
雑誌では作曲家グスタフ・プレッセル(1827-1890)がハンガリーのオペラ「フニャディ・ラースロー」(1844初演・フェレンツ・エルケル作曲)をかなり手厳しく評価しているのですが、そんなオペラがペスト(当時のハンガリーの首都)で一時的に高く評価された理由をいくつか挙げています。
①台本が(ハンガリーの)歴史的・国民的なテーマを扱っていること
②そのテーマゆえに革命後しばらくの間上演が禁止されていたという事情
などなど…。
ここで重要なのは、「ハンガリーの民族的なテーマを扱ったオペラが、革命後は上演が禁止された」という趣旨の記述です。
なおフニャディ・ラースローは実在の人物で、ハンガリーの悲劇的英雄とされているようです。
「ハンガリー色の強い特定の作品が禁止されたことがある」ならば、同様の事例が舞踏会で起きたとしてもおかしくはないのでは…と思わせます。
だからチャールダーシュも禁止されていたのだ、とは結論づけられませんが。
おわりに
チャールダーシュは19世紀後半に全盛期を迎えた、ということが定説のようです。
その流行に、オーストリア=ハンガリー二重帝国成立前後のハンガリーの地位向上・ハンガリー文化の地位向上も関係していた、と私は考えたくなりますが、断言は控えます。
もしも1848年の革命の後、ハンガリー人の勢いが落ちてハンガリー国内の他の民族の勢いが増していたら、ハンガリー民族と深い繋がりがあるチャールダーシュの人気はどうなっていたのか、もしかしたら他の民族の踊りが新たに登場して人気になっていたのか…。
想像は尽きません。
全体的に仮説どまりの内容にはなってしまいましたが、禁止令説の源の一つではないかと考えられる『麗しの皇妃エリザベト』の再発見、革命をターニングポイントとしたハンガリーの民族運動とチャールダーシュとの関連を再提示できたことは、良かったのではないかと思います。
長い記事になりましたが、読んでくださいましてありがとうございました。
参考資料一覧
『Fünfundvierzig jahre aus meinem Leben (1770-1815)』(1912)Luise Radziwill (Fürstin)
『Hungarian Dances: Guide Book for Teachers of Hungarian Dances』(1936) Edith Weber Elekes
『ハンガリー音楽小史』(1969)ソボールツィ・ベンツェ / 訳 谷本一之/音楽之友社
『Élisabeth d'Autriche ou la Fatalité』(1983)Jean de Cars
『麗しの皇妃エリザベト:オーストリア帝国の黄昏』(1984)ジャン・デ・カール / 訳 三保元/中央公論新社
『ハンガリー革命史研究-東欧におけるナショナリズムと社会主義-』(1989)羽場久浘子/勁草書房
『ウィーン音楽文化史 上 』(1998)渡辺護/音楽之友社
『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』(2003)加藤雅彦/NHK出版
『世界史B』(2007)尾形優・後藤明・桜井由躬雄・福井憲彦・本村凌二・山本秀之・西浜吉晴/東京書籍
『図説 ハンガリーの歴史』(2012)南塚信吾/河出書房新社
『詳説 世界史』(2024) 木村靖二・岸本美緒・小松久男・橋場弦/山川出版社
「チャールダーシュの形成とその特性」(1982)大澤慶子
「ハンガリー音楽の軌跡」(2012)大網明代
「マティアス・ペルトの日記に見られる1814年〜1815年のウィーン会議と音楽-その2、舞踏会とワルツ」(2016) ジェラルド・グローマー
おまけ:未来のための論点
チャールダーシュ禁止令説の検討には、さまざまな論点があります。
・禁止されたとして、どこで禁止されたのか
・禁止されたとして、いつ禁止されたのか
・禁止されたとして、なぜ禁止されたのか
・禁止されていないとして、なぜ禁止説が生じたのか
今回の記事では「ハンガリー革命の失敗に伴い、チャールダーシュが踊りづらい時期があった」のではないか、ということを示唆するにとどまりましたが、もしかするとアウスグライヒ以降のチャールダーシュ全盛期に「人気すぎて禁止された」という可能性も、ゼロではないのです。
あと、仮にウィーンの宮廷舞踏会で禁止されていたとして、宮廷の外ではどうだったのか?という論点もあります。階層によって厳しさが違った可能性もあるのですね。
さらに、ハンガリーの民族運動と直接的には関係がない国ではどうだったのかなど、わからないことだらけなのです。
おまけ:禁止説の理由部分の元ネタ?
「チャールダーシュはウィーン宮廷で禁止されていた」という説に関しては、真偽は不明なものの元ネタがあることがわかりました。
しかし、ネット上では上述したように「人気すぎて」と、理由の部分に元ネタとの違いが生じています。
その原因として、チャールダーシュ禁止に関する他の元ネタがある、という可能性に加え、他の踊りが禁止された理由と混ざった、という可能性を私は考えています。
ヨーロッパで特定の踊りが禁止されたという記録はいくつかあるようなのです。
例えばDreherという体を回す踊りでは、バイエルンの公的記録には1650年10月15日に村の警察がwalzende Tänz(回る踊り)を禁止したと書かれているそうです。
出典:『ウィーン音楽文化史 上 』(1989)渡辺護/音楽之友社 285ページより
他の例では、プロイセンの皇太子妃ルイーゼが1793年にベルリンでその時まで禁止されていたWaltzerを踊り、招待客を驚かせた、という記録があります。
「マティアス・ペルトの日記に見られる1814年〜1815年のウィーン会議と音楽-その2、舞踏会とワルツ(続)」(2015) ジェラルド・グローマー よりhttps://yamanashi.repo.nii.ac.jp/record/1175/files/24330418_1_233-242.pdf
出典:『Fünfundvierzig jahre aus meinem Leben (1770-1815)』(1912)Luise Radziwill (Fürstin) 78ページより
他にも、1785年にウィーンのマッツラインスドルフに開かれた「月光」と呼ばれるダンスホールでは、ラングアウスという踊りがその動きの過激さゆえに死亡者を出して警察に禁止され、しかもその命令は何回も発令された、という話もあります。
出典:『ウィーン音楽文化史 上 』(1989)渡辺護/音楽之友社 308ページより
その他、真偽は不明ですが日本語版Wikipediaの「ワルツ」のページにも、"ヴェラーは、ゲルマン文化初の男女が体を接して共に回るダンスであったが、汚らわしいという理由からハプスブルク帝国時代、長年に亘って法律的に禁止されていた。"といった記述があります。
このように、特定のダンスが禁止されるというエピソードは、真偽不明なものも含め、多様な禁止の理由とともに存在しています。
ネット上のチャールダーシュ禁止令説に、これら複数の禁止エピソードが混ざってしまっているため、理由の部分に違いが生じているのではないか、と私は考えています。
おまけ:記事で使わなかった文献・資料
今回の調査では主にGoogle Booksなどを使って古い文献や資料を調べましたが、内容の正確性は判断できませんし、それらを不用意に記事に入れると収拾がつかなくなるので、結局使わなかった文献がたくさんあります。
もったいないので、それらを簡単に紹介したいと思います。
チャールダーシュについて様々な文章がありますが、あくまでも「当時はそういう認識があった」という把握にとどめたほうが良いと思います。
オーストリアの政令公報
1849年から1940年までの政令公報を閲覧することができます。
サロシ・ジュラの詩
ハンガリーの詩人サロシ・ジュラ(1816-1861)が1848年の革命失敗後に書いたとされる詩で、「少女たち、踊りなさい、ずっと踊っていなかったでしょう」というような表現があります。
チャールダーシュが踊れなかったということを意味するわけではないと思いますが、何かしらの抑圧があったことを示唆している、という程度に解釈するのはいいのではないでしょうか。
Budapesti Viszhang(1856)
ハンガリーの作曲家マトーク・ベーラ( 1829–1897)が、自身が公募した音楽賞について条件の変更があることを知らせている文章があります。
その中に、現時点で提出された作品のタイトルや楽器編成が列挙してあり、そのタイトルのほとんどにチャールダーシュと書いてあります。
The Magyars; Their Country and Institutions(1869)
マジャル人(ハンガリー人)に関する本です。チャールダーシュに関して、「革命戦争後、ウィーン政府が取った政策が、ハンガリー貴族の大部分を宮廷に対する反対勢力に追いやったため、この踊りはペストの上流階級の舞踏会にも取り入れられるようになった」というようなことが書いてあります。
The Monthly Musical Record(1876)
ハンガリーの革命家コッシュートの秘書を務めたあとにエディンバラで活動したピアニスト、ジョージ・リヒテンシュタイン(1827-1893)による文章で、ブラームス(1833-1897)のハンガリー舞曲がヨーロッパ中で人気になっていること、ハンガリー舞曲の元ネタはチャールダーシュであることが書かれ、各曲の元ネタの題名と作曲家の名前が書かれています。
Appletons' Journal(1878)
チャールダーシュについて、かなり多くの文章が書かれています。
・ハンガリーでは全階級が音楽とダンスに情熱を持ち、この嗜好はオーストリア政府によって巧みに利用され、徴兵活動を行う際にこの情熱に訴えかける。
・ジプシー楽団の演奏を先導に、フサール(軽騎兵)が情熱的なダンスを披露し、見物している暇な男性たちの興味を引きつけ、興奮させ、巧妙に徴兵する。
・チャールダーシュは、その性質上、サロン向けのダンスではない。
・形式ばらない特徴や長いオーストリア支配の影響にもかかわらず、チャールダーシュは上流社会から締め出されることはなく、フランスのワルツやカドリールと並んで宮廷でも人気を博している。
・ただし、洗練された趣向に合わせて、そのスタイルは幾分控えめに演じられる。
Lippincott's Magazine(1881)
チャールダーシュについての記述があります。
「マジャル人は他の踊りを踊ることはなく、最近では中産階級だけでなく、ペシュトの上流階級の舞踏会でもハンガリー貴族がこれを踊るようになったが、後者の二つの階級はウィーン政府に対する反発の精神からチャールダーシュを再び採用している」というようなことが書かれています。
「チャールダーシュが踊られるときには、必ずジプシーがその演奏を担当し、ペシュトの最も壮大な舞踏会でも、どんなに有名な楽団が四重奏やワルツを演奏していても、チャールダーシュのためには必ずジプシーの楽団がいる」とのことです。
Musikalisches Konversationslexikon(1883)
これは音楽用語辞典のようで、チャールダーシュの項目があります。
「1848 年の革命まで、チャルダーシュは主にハンガリー国民の最下層によってのみ踊られていて、貴族のサロンや公の舞踏会で人気が出るようになったのはそれ以降のこと」というような説明があります。
1888年の国際科学・芸術・産業博覧会の回顧録
ハンガリー国民楽団の演奏に関するレビューが書いてあります。
その中に、1886年にエディンバラで開催された国際博覧会で、先述したジョージ・リヒテンシュタインが書いたチャールダーシュの説明が引用されています。
「この踊りは、19世紀の初めに社交界で取り上げられるまでは、一般には高尚なものとされていなかった」というようなことが書いてあります。
Journal of the Gypsy Lore Society(1891)
J. SÁRMAIという人が「Journal of the Gypsy Lore Society(ジプシー伝承協会誌)」のために書いた文章で、Herrmann教授の意見をもとにチャールダーシュについて説明をしています。
なかなか興味深い記述なのですが、本記事で使うことは避けました。
・「チャールダーシュ」の振り付けは、16世紀に流行した古いハンガリーの「パロタシュ(palotás)」舞踊と関連している
・ジプシーのヴァイオリニストたちは、普段演奏しているハンガリーの曲を楽しみのために歌うことはなく、ジプシーの歌をジプシー語の歌詞で歌う
・これらの純粋なジプシーの歌のメロディーとリズムは、ジプシーの第二言語が何であるかに応じて、ハンガリー風、ルーマニア風、セルビア風、スロバキア風などに変化している
・しかし、音楽の外面的な部分や技術的、装飾的な部分に関しては、すべてのジプシーで同じである
・ジプシーのヴァイオリニストたちが普段演奏しているハンガリーの曲を自分たちの楽しみのために歌うことはないのと同様に、ジプシーたちは「チャールダーシュ」を踊ることもない
・しかし、ハンガリーのジプシーたちの民衆舞踊には、ハンガリーの「チャールダーシュ」の多くの要素が含まれている
・ハンガリーの「チャールダーシュ」は、音楽的にも振り付け的にもジプシーとは独立している
・チャールダーシュは、ジプシーやジプシー音楽が存在する前から、またジプシー抜きでも、ジプシーでないリュート奏者たちの時代にすでに演奏され、踊られていた
・チャールダーシュの踊りの性質や動きは、一世代前と比べて大きく変化している
・流行によってその性質は何度も変えられ、多くの変化を遂げた
今日のいわゆる「サロン・チャールダーシュ」は、1848年以前のものとは全く異なるし、また、国内の地域ごとでもかなり異なる
・しかし、主な動き(動きのリズム)は一貫して同じ
Dancing(1895)
ハンガリーに関する項目で、チャールダーシュに触れられています。
Herrmann教授(おそらく上述の「Journal of the Gypsy Lore Society」で挙げられたのと同じ人)のコメントとして、「チャールダーシュは音楽的にも舞踊的にもジプシーたちから独立している」「リュート奏者がいた時代に既に演奏され、踊られていた」と紹介されています。
続いて、チャールダーシュが時代とともに大きく変化し、特に「サロン・チャールダーシュ」と呼ばれる形式では流行が大きな影響を与えた、という記述があります。
ベラ・ヴィンクハイム男爵の意見として「コッシュートや革命による政治的変化がチャールダーシュの変化には反映されている」と書かれています。古い踊りの荘厳な雰囲気が、憲法を覆そうとする熱狂的な世代により最適な動きへと発展した、とのことです。
ハンガリー発日本語情報誌『パプリカ通信』からの引用
筆者は鈴木仁氏。「チャールダーシュまでの道のり」という文章が掲載されています。
チャールダーシュの父・ロージャヴェルジ
おまけ:『麗しの皇妃エリザベト』原著の参考資料リスト
未公開情報源
Agenda de l'impératrice Elisabeth (année 1879).
Petit album personnel de l'Achilléon. Souvenirs (documents, correspondances, dépêches, photographies) conservés à l'hôtel Beau-Rivage par M. Jacques Mayer. En particulier, le récit de sa grand-mère, Mme Fanny-Louise Mayer.
Interview de S.M. l'impératrice Zita, témoignages et compléments d'enquête fournis par son entourage sur la thèse, nouvelle, de l'assassinat politique de l'archiduc Rodolphe.
Enquête auprès de différentes personnalités, liées directement ou indirectement à la famille impériale ou qui lui sont étrangères et dont je respecte le strict désir d'anonymat.
Ces recherches m'ont permis de dégager des aspects nouveaux, dans des domaines divers, de la personnalité de Sissi et d'examiner certains souvenirs intimes.
出版物の情報源
Concernant directement l'impératrice Elisabeth, la base de toute étude sérieuse reste l'admirable travail de Egon César comte Corti, première biographie complète jamais publiée. Ce texte date de 1934. Sa dernière réédition, sans aucune mise à jour, a été publiée en français par Payot, en 1982. Il est également dommage que l'édition française ne comporte aucune illustration, comme l'édition en allemand: Elisabeth, die seltsame Frau (Ed. Styria, Vienne et Graz).
Histoire de Sissi par Raymond Chevrier (Pierre Waleffe, 1968).
Un texte relativement bref mais bien conçu, une remarquable illustration. Cet ouvrage, le plus récent paru en français sur le sujet exclusif de Sissi, a été également publié en allemand, sous la forme d'un album de petit format: Sissi, die Geschichte der Kaiserin Elisabeth von Osterreich (Amalthea, Vienne, 1970).
Elisabeth, impératrice d'Autriche par Karl Tschuppik. Traduit de l'allemand par Gabrielle Godet (Plon, 1933). Un survol,
doté d'intéressantes réflexions mais confus sur le plan chronologique.
Elisabeth d'Autriche par Henry Valloton (Fayard, 1957). Un excellent travail.
Elisabeth, impératrice d'Autriche par Maurice Paléologue, de l'Académie française (Plon, 1939).
Les secrets d'une Maison royale par la comtesse Larisch von Wallersee-Wittelsbach (Payot, 1935, réédition en 1949). J'ai ditet je redis - avec quelle prudence il convient d'aborder ce livre où l'intention de nuire, évidente, se heurte à des contradictions, à des lacunes graves et à des impossibilités chronologiques. La nièce morganatique de Sissi commet, d'ailleurs, sa première imposture en utilisant ce nom d'auteur. En effet, en 1896, elle divorça du comte Larisch, épousa un chanteur bavarois, M. Otto Brucks puis, en troisièmes noces, un fermier américain, M. Fleming. Son livre fait suite à celui qu'elle publia à Londres, en 1913, sous le titre « my past ». Je précise que son fils s'est suicidé après avoir appris le rôle trouble joué par sa mère dans la tragédie de Mayerling.
Aus den letzten Jahren des Kaiserin Elisabeth par la comtesse Irma Sztáray (Adolf Holzhausen, Vienne, 1909). Une source précieuse sur les dernières années d'Elisabeth. Le récit, d'un ton parfois exalté, couvre la période d'août 1894 à septembre 1898. Il n'a jamais été traduit en français.
Villégiature impériale en pays de Caux par Albert Perquer (Paul Ollendorff, Paris, 1897). Une rarissime plaquette, aussi précieuse que charmante, sur le séjour de Sissi à Sassetot-le-Mauconduit, en 1875.
The lonely empress par Joan Haslip (Weidenfeld and Nicolson, Londres, 1965). Le meilleur ouvrage après celui du comte Corti. Il contient d'intéressants détails sur les séjours de la souveraine en Angleterre et en Irlande. Traduction française chez Hachette, en 1967.
La mort de l'impératrice Elisabeth ou l'acte de l'anarchiste Lucheni par Maria Metray et Answald Kruger (ouvrage publié en allemand par Kurt Desch, à Vienne-Munich-Bâle, en 1970).
Elisabeth, Kaiserin wider Willen par Brigitte Hamann (Amalthea, Vienne, 1982). La plus récente étude en allemand.
Un texte volontiers critique, voire hostile, avec des lacunes surprenantes dans un ouvrage de cette dimension. Il contient des poèmes que Sissi ne voulait pas publier de son vivant.
C'est davantage une étude psychanalytique qu'une véritable biographie. Du même auteur, chez le même éditeur, un intéressant album de photographies et d'illustrations diverses, Elisabeth, Bilder einer Kaiserin.
La dame blanche des Habsbourg par Paul Morand, de l'Académie française (Librairie Académique Perrin, 1979). Une évocation brillante, à l'image de son auteur.
Elisabeth de Bavière par Constantin Christomanos. Préface de Maurice Barrès, de l'Académie française (Mercure de France, traduction de Gabriel Syveton, 1900). Un texte lyrique, des observations capitales couvrant la période 1891-1892 par celui qui fut le quatrième - et le plus connu - professeur de grec de Sissi.
Concernant plus particulièrement l'empereur François- Joseph et la vie du couple impérial, c'est encore au comte Corti que l'on doit le travail le plus fouillé. Son étude comporte trois volumes: Vom Kind zum Kaiser et Mensch und Herrscher (Anton Pustet, Graz-Salzbourg-Vienne, 1950). Le troisième volume a été rédigé par Hans Sokol après le décès du comte Corti en 1953. Il a été publié en 1955, Der Alte Kaiser (Ed. Styria). Ce monumental tryptique n'a jamais été publié en français.
Franz Joseph I. par Ernst Trost et Christian Brandstätter (Fritz Molden, Vienne-Munich-Zurich, 1980). La plus récente étude sur l'empereur, présentée sous forme d'un album somptueusement illustré, avec des documents exceptionnels et remarquablement mis en page.
いいなと思ったら応援しよう!
