「マイルドな結果の平等」を実現せよ
人間がよくやりがちなのが「苦手の克服」です。 苦手を克服しようと思うのは自然な感情ですから、 一概に「やめた方がいいよ」と言うつもりはないです。ただ、いくら努力しても「なかなか改善しないもの」ってあるんです。例えば、繊細な人がもっと大胆に、図太く、サイコパスのようになりたいって思う。 思うのはいいんですよ。憧れるのもいいんです。 でも、本当に真剣になってサイコパスを目指すと、時間を無駄にします。 これは言っておかなければなりません。
人間の性格は、かなりの部分、遺伝的構成で決まります。 30歳を過ぎると持って生まれた遺伝的なものが色濃く出てきます。 小学校、中学校くらいまでは自分の傾向性がわからない。 なので周囲の人間関係でキャラがコロコロ変わったりするわけですが、大人になると安定してきます。行動遺伝学で言われていることですが、歳を取れば取るほど生まれ持ったものが色濃く出てきて、変動が少なくなってくる。ですからもう30歳、40歳になってくると自分の人格が大体わかってくる。 サイコパス系なのか、HSP系なのか、中間くらいなのか。
ただ人間って本当に勘違いしやすくて、教育や環境次第で「いくらでも変わる」という信念がある。 大昔から頭のいい人もこういうふうに考えていました(人間はみな生まれたときは白紙の状態で、教育や訓練でいろんなものになれると)。「優しい子に育ちなさい」「人を思いやりなさい」と教育すれば、その人はそういうふうになれると。 この発想が長く続いてきました。しかしながら知のパラダイム転換がおこりました。ダーウィンの進化論や進化生物学、行動遺伝学の進展によって、「人間とは何ぞや」っていうのが明らかになってきたんですね。
これまでは、人については動物のように観察していなかったんですよ。人を動物と同じように考えることって、やってはいけないことだったんです。 「差別につながる」とか「宗教の価値観」もあって。「人間というのは神様が作った最高傑作だ」みたいな感じで、動物とは一線を画した崇高な存在っていう世界観・価値観があったので、 人間を遺伝子とか自然科学の方面から理解するのはタブーとされていたんですね。 それが徐々に科学的な思考が優勢になってきて、結局人間も動物なので、進化論のレンズを通して見ることができるよねということになってきた。
でも、いまだに日本では、「人間を動物と見る」というのがタブーとされていて、主流じゃない。人間は空白の石板で、粘土のようなもので外から圧力を加えたら、どんな形にでもなれるという、 お花畑的な思考が支配的です。人間をものすごく理想化して考えている。生まれつき不安になりやすい人がいたり、 恐怖を感じやすい人がいたり、はたまた反対の暴力的な人がいたり、犯罪を犯しやすい人がいるというのは、考えないようにしている。
真面目に人間のことを考えるなら、遺伝的な違いを認めた方がいいんです。今までの社会って、「機会の平等」は担保しましょうという考えでした。勉強する機会、就職の機会、そういうところは、平等にしましょうってやってたんですね。これっていうのは、一律に教育を施せば、ある程度みんな同じになるっていう発想ですよね。 でも現実を見たら、日本という豊かな国で、みんな高度な教育を受けて、それで結果を見たら、大学院まで行く人もいれば中卒の人もいるし、勉強が得意な人もいれば不得意な人もいる。スポーツが得意な人もいれば下手な人もいると。 まったく結果が違うんですね。要するに、機会の平等を担保しても、結果があまりにも違うので意味がない。人間の多くは苦しいままなんですよね。
というわけで、必要なのは「結果の平等」なんですよ。 でも結果の平等って言ったら、社会主義みたいになっちゃうんで、それはちょっとやりすぎなので、ここで結果の平等っていうときに、もっと生活保護を取りやすくするとか、ベーシックインカムを導入するとか、つまり何も申請しなくても、毎月生存するに足る金額が振り込まれるようにする(機会の平等はもちろん大切ではあるんですが、ただ、結果の平等にもちゃんと配慮するっていうのが大事です)。
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