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人が主体的に行動するときはどんなときなのか?

「主体的になりなさい」
そう言われて、主体的になれるのだろうか?
つまり、それは既に強制なのではないか?

子どもの学びの中に、「主体的・対話的で深い学び」というのがあるが、主体性というのは何なのか。その主体性を育むためにどうしたらいいのか。果たして、「主体的に動きなさい」といわれて動いた行動は主体的なのだろうか?

「主体的になりなさい」という言葉にはある種のトリックが隠されているのかも知れない。聞こえは「あなたたちには主体的に動く権利があるんだよ」と言われている感じ。でも、動いているのではなく動かされている感が半端ない。そこには「やりたい」という気持ちがのっかってないから?「やりたい」という気持ちにならないのは、もちろん理由があるはず。その理由を無視して「主体的になれ」だなんておかしな話。

やっぱり、主体性を育むためには心を育む必要がある。
子供の興味を刺激し、わくわくドキドキ感を育み、やってみたいという気持ちにもっていかなければ、自らの気持ちで取り組もうだなんて思わないだろう。そこで、大切なのが、教師の裏仕掛け。いかに子供たちの気持ちをのせるか、のってきてしまえばこっちのもの。大切なのは、何を学ぶかではなく、どのように学ぶか。そのために環境を整えてあげることは重要。

これは、子供の学びだけじゃない。
大人の働く環境だって、学ぶ環境だって同じ。子供には教師がついているけど、大人の私たちは自分で上手いことスイッチを切り替えていかなければいけない。でも、結局は主体的に動きたくないときは、嫌なときなんだろうな~。いくら「主体的になりなさい」と言われても、言われた時点でそれは強制だよな…。

主体的に行動する

いかに物事を多角的に見て、その物事に興味がもてるか?
興味をもつって何だろう?
知りたいと思うこと?
なぜ知りたいと思うんだろう?
自分と何か関係しているから?
結局世の中は自分中心で回っているのかな?

ちなみに私は自分が好きで、自分が大切で、自分を一番信じている。
一番の理解者は自分だと思っている。

自分を愛することで、自分を満たすことで、自分の興味に目を向ける?
無限のループに彷徨い込む。

でも1つ言えることは、
「楽しい」って思えること、思わせること、なのかな??
答えはいつまで経っても見つからない。
ないからこそ、ずっと探し続けられる。

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