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『判断力批判』、覚え書き

 『判断力批判』を読んだ。どうして、この手の本を読んでいるのだろうかと、我ながら不図、おかしく思う。

 カントによると、われわれの美的(情感的)判断、つまりは、何かを〈あはれと思ふこと〉には、構想力(想像力)が働いているという。たとえば、夏雲が夕映えに照らされる風景を、あはれうるはしと感動したならば、そこでは、数値は問題ではない。あの夏雲を測定して、その高さが実在のどの山と比較できるとか、夏雲の動く速さを計測して颱風の進路を予測していみるとかという、数値とは無関係に、つまり、数値があてはまる他の何らかの対象とはまずは無関係に感動がある。しかも、同じ夏雲を見て、誰もが感動するわけでもなければ、もしや当人も多忙に足速やであったならば、感動する間もなかったかもしれぬ、偶々偶然この一回限りの邂逅において起こった現象に感動がある。現象から感動を引き出すところに、カントの言う構想力(想像力)が働いているのやも知れない。

 「美的という語のもとに理解せられるものは、その規定根拠が主観的でしかありえないところのものである。」(kdu.4 河出版 坂田徳男 訳)

 なるほど、美的判断は客観的というよりは多分に主観的なものであるかもしれない。さて、そうであるならば、動物は美的判断を下すのだろうか? 本当のところはわからない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。なぜなら、われわれは原理的に動物と話すことは愚か、彼らを一方的に擬人化することでしか、彼らを知ることができないからだ。
 しかし、歴史のもしもを考える禁じ手を誰もが楽しむように、動物の心を考えるという禁じ手をここでも弄してみようか。
 われわれがゴミと認識するものを、ハイエナは食べ物と認識するから云々といった、身体的欲求という観点から考えたいのではない。そのような身体的欲求から快・不快を考えて、それをベースにレベルを上げていくと美的判断に行き着くという筋道もあるのかもしれない。その筋道からの帰結は、低いレベルのいわば基礎的な快不快が異なっているので、動物と人間では美的判断は異なると結論されることだろう。しかし、美的判断とはそのような身体的な快不快を積み上げていくと練り上げられていくような種類のものなのだろうか。もしかしたら、質的にことなっているかもしれない。(そして、とりあえず、カントは、美的判断は認識的判断とは異なっていると書いている。引用した限りでもそれは質的に異なっていると述べていると言える。)
 動物の美的判断を考えるとき、対項に人間を出したとき、結論として出てくる候補は以下の三つであろう。① 動物は人間と同様の美的判断を為している。② 動物は人間とは異なる美的判断を為している。③ 動物はそもそも美的判断をしていない。(いまは、動物の心を考えるという禁じ手を敢えて行うという前提で話を進めているからこの三つだが、もっとも意義深く探究すべきは、④ 動物のことは人間にはわからない、という選択肢だろう。)
 さて、この三つのうち、②は面白くないというより以前に、異なるすればその異なりや何如や、という更なる問題を産み、そして、その探究は科学的知見が有用となるような、ここでは手に負えない代物となるだろう。
 ③は、ありえるが、①がもっとも想像力をかき立てられる。というのも、動物の心を考えることは、その対項である人間の心を考えることであるからだ。その観点からすると、①がもっとも示唆に富むと感じられる。
 たとえば、あなたが、夕日の部屋でこれから叩き落そうとしているハエ。いつも俊敏に動いて失敗し悔しい思いを重ねてきたが、今日のハエはどうやらじぃ~としていて鈍そうである。さて、そのハエはいま窓の外に見える夏雲が夕映えに照らされているその風景に感動しているのである。生まれてこの方、生存していくのに齷齪し、世界を眺望する機会など一瞬もなかったハエの短い生のなかで、この一瞬こそは紛れもなく美しい時間であった。ハエが美的判断以外の何を思っているかは別として、ハエが美的判断をしているとする。われわれは、美的判断をする生命体を叩き落し、或いは切り倒し、或いは肉を割き、或いは焼き殺し、或いは、その生存の可能性を文明の発展という名のもとに奪っているのだ。
 『判断力批判』の引用した箇所だけであるなら、カントは①の可能性を受け入れることになりはしないか。(或いは、主観を人間主観のみと限定するか。)

 そのような疑問をもって『判断力批判』を読んでみたいと思う。

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