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哲学まみれ

 唯我論の謂う「わたし」とはどのようなものなのかを考えてみたい。

 そのときの一つの候補としていつも挙がるのは、身体・感覚である。しかし、身体は切断されることもありえる。たとえば、腕が切断されても「わたし」は生きている。同じく感覚も切断されよう。幻肢ということもあるが、そこは本質ではなく、切断が可能だということが概念的に重要だ。つまり、切断されても残っている「わたし」とは何かということだ。

 ところで、ここから先がこのページで書きたいことになってくる。その書きたいことの導入のために身体・感覚を置く必要がある。というのは、身体は空間的なものであるとして、その対比項として、時間的なものを考えたいのだ。記憶ではない。近いのは分析哲学で出てくる四次元ワームであろう。個体が身体として爪先から頭の先までの空間的な範囲を持つならば、同じように、誕生から死亡までの時間的な範囲を持っていると考えうる。だから、ここで考えているのは、記憶内容ではなく、実在する誕生から死亡までの個体の貫時間的同一体だ。

 で、ここで考えたような貫時間的同一体に切断は可能かどうかを問う。

 たとえば、一日前という断片がすっぽり抜け落ちるとどうなるか。身体でいうなら、腰回りをさっくりスライドして切断したように、一日前の実在部分、それをスライドと呼ぶなら、そのスライドを貫時間的同一体から切り去るわけだ。これは、何度もいうが、一日分の記憶が抜けたのではない。或いは、過去の一日について、世界の側が抜けたとかいう話ではない。誕生から死亡まで続いている物理的持続(という仮説の上で議論しているもの)が切断されたのだ。
 
 たぶん、そんなことをしたら、この仮説のもとでは死ぬだろう。身体的切断だって、縫合するから生き延びるのだ。しかし、時間的切断では縫合が原理的にできない。なぜなら、時間を飛び越えてしまっているのだから。

 いや、ここで、その縫合にあたるものがあるという立場もあろう。つまり、それを今ここで考えているということだ。貫時間的同一体がたとえ現にどこかで切断されていようとも、そういうことも含めて、今、生きて考えている限りにおいて、その切断は私を死に至らしめることはできない。切断は、今、生きているこの私が考えている限り、つねにいつも縫合されているのだ。

 まとめよう。一体この思考実験は何がしたいのか。「わたし」とはどういうものなのかについての考察である。唯我論は、今のこの私しかないのだという立場だと誤解される。しかし、今だけならば、切断されて死ぬのだ。そうではなく、その今は、そう考えているというということによって縫合されている。今とか私とは決してスライドにされた切片のことではなく、それらがいつも対象化されて、後景に退いたときに、その思考の運動を駆動している場そのものであるのだ。
 
 今回の思考実験は、そのような思考の階梯を浮かび上がらせる発想の一つであった。

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