映画感想 是枝裕和「怪物」
どうして、この世では視点(パースペクティヴ)が一つに固定されているのだろうか。生きがたい。もしも、生まれ変わって、相手の視点も同時に観られたなら、こんな誤解はないのだろうに。でも、そんな生物は怪物かもしれない。或いは、私たちがすでに怪物か。
是枝裕和監督の最新作「怪物」は、少年たちの成長を丹念に描いた、それでいて鑑賞者に謎を持ち帰らせる物語だ。舞台は現代、諏訪湖のほとりの小学校。主人公の湊は、いじめられっ子の同級生、依里に魅かれている。二人の間柄は、少年期特有の絆を超える。湊は依里が好きで、依里も湊が好き。しかし、そのことは他のクラスメイトには気づかれてはならない、二人だけの秘密でもある。それでも、自我のなかに抱えた社会との違和をどう処理すればいいのか、少年たちは悩むのである。その心象が映画の舞台である信州の空気感と溶けあって見事な映像美をみせてくれる。二人の秘密基地である森のなかに廃棄された列車は、誰しもに心に記憶した少年期を思い出せてくれる。湊と依里はその廃列車で二人だけの夢のような時間を過ごす。しかし、それは少年期が誰にとっても一過性のものであるように、いつか過ぎゆく切ない光景でもある。些細な事件から距離を置くようになった二人が、颱風のきた日、もう一度、秘密基地へ向かう。だから、物語は二人の気持ちに寄り添いつつも、成長の苛酷さも決して見過ごさない。
こうまとめるなら、「怪物」は同時期に上映されているフランス映画「クロース」と設定ばかりか主題も被ることと見られよう。だが、「クロース」が、〈疎遠になることのやり切れなさ〉を描いたどちらかというと理知的な構成で映画なのに対して、是枝裕和の「怪物」はもう少し別の方向性をもっていて、情緒にさまざまな謎を訴えかけてくる映画だ。どういうことか、それを考えるヒントは登場人物の多彩さと人物造形の立体感にある。
私がこの映画でもっとも気になっている登場人物は、田中裕子が演じる校長、伏見真木子だ。彼女は、交通事故で孫を失った直後、校務に復帰する。そうして、新米教師保利が起こした保護者とのトラブルの「処理」に当たらざるを得なくなるのだ。穏便に、ときには、孫を失った悲劇を盾に保護者の同情を誘いつつ、事を大きくしないように、細心の注意を他の教員たちと協力しあってトラブルに対処する伏見である。が、本音のところでは新米教師にも、必死の形相の保護者にも同情する気になれない。事の「処理」はまさしく外形的となっていき、些細なトラブルは、保利が、湊に「豚の脳」と暴言を言ったと大きく報じられる結果となる。
なぜ、伏見はかくも外形的な処理に走ったのだろうか。伏見が校長職に恋々とする人物として描かれているのなら話はわかりやすい。そのような「凡庸な悪」というよりももっと懐の深い人物として造形されている。伏見は世界をもう少し違った目線から眺めているから、トラブルなどいう俗事に興味が持てないのではないか。だがらこそむしろ少年たちと会話の通路が開かれる。トラブルの発端が自分がついた一つの嘘だったことを、湊が初めて告白する相手が伏見なのであった。管楽器を湊と一緒に奏でることで、湊を、そして、それを遠くで聴いた新米教師の保利の心までも癒していくのが、伏見なのだ。
その観察を基に、映画が情緒に訴えかけてくる謎について、私が考えた範囲ではあるが、もう少し、書いてみたい。それは、生まれ変わりに纏わる謎といえるだろう。湊と依里は、いつか宇宙が生まれ変わる日を語り合う。それは観客には、学校という閉鎖空間から、遠いところを夢見る少年らしい愛らしさに映る。しかし、生まれ変わりというテーマは何も少年たちのものばかりではない。校長である伏見もまた、生まれ変わりということをついつい思い巡らしてしまう境遇に立たされてきたのだ。孫を轢いたのは校長自身かもしれない、自分の身代わりとして夫を刑務所に送ったのかもしれない。それらの真偽は確かめられないのに、映画の中では登場人物たちはあたかも真実のように噂しあう。そんな噂の取りまく中、伏見が川を見つめるシーンが二度描かれている。一度目は、ビル火災があった夜中、チャッカマンを持った依里が川べりで出会った人物。それが伏見であった。そして、二度目が湊たちが颱風に消えて日、嵐のなかに川を見つめている伏見。伏見真木子は映画のはじめと終りで、或いははじめから終りまで、川を見つめる人物として描かれている。なぜ、彼女は川を見つめているのだろう。映画は答えない。しかし、私には彼女が自身の生をはかなんで思いつめているとも受け取れる。川は生まれ変わりの場所であろう。孫が生まれ変わること、或いは、自身がこの世を捨てて新たに生まれ変わること。また或いは身を捨てて生まれ変われなくても構わない。
そうすると、生まれ変わりという、この俗世を超越した地点から、老境の伏見と少年たちは同じ位相にたって世界を見つめていると言える。だからこそ、湊の気持ちにはじめて気づくのが保利だとしても、湊の心を癒す手だてを与えるのは伏見真木子なのだ。
しかも、映画は誰かの死で物語を結ぶのではなく、それでも生きていくという、「運命愛」とも呼びたくなるような(或いは、宮崎映画のテーマのような)着地をみせる。少年たちは遠いところへ憧れるだけではなく、この世界を受け入れる自分の力に気づく。それを成長というのなら、成長という名の生まれ変わりと言える。こうした少年の心象風景がそれにふさわしい坂本龍一の音楽に包まれて展開していくのが、じつに美しい。