見出し画像

期待することをやめたら、無駄な怒りを手放せた

いつだったかもう今となっては思い出せないけど、何かに期待することをやめた。

若い頃は時代を恨んだ。就職氷河期世代。20代は非正規で下働き。30代で正社員の称号は得たものの、給与遅延は当たり前、賞与なんてあるわけない「黒い会社」にしか雇われない。転職活動をしても「年齢のわりに経験値がない」と切り捨てられる。

どこで道を間違えたのか、人生なんでこうなってしまったのかと思い悩んだのと同時に、バイトでしか働かせてもらえず、下働きしかさせてもらえなかったのに、今になって経験値がないとか、経験させてくれなかったのはそっちやんか!と、怒りで社会を睨んだ日もあった。

でも、同級生で誰もが知ってる会社に入ってしっかりやってる子や、独立して自分の屋号を持って働いてる子もいるわけで。時代のせいではなく、自分の努力不足が今を招いているわけで。もう一歩踏み出せば、もうちょっと耐えたら乗り越えられた壁だったかもしれないのに、あきらめたのは私だ。完全に自分の甘えだったと今は思う。

怒っても恨んでも何も変わらなかった。無駄な疲労を積んだだけだった。期待しても利を得られるわけじゃない。それならもう時代にも社会にも政治にも誰にも何にも期待しない。そう決めた。

一見冷酷すぎるように思われるかもしれないけど、期待はいきすぎると思い込みになり、思い込みが視野を狭め、執着になる。世界の何も知らないのに、なんでどうしてと怒ったところでなんの解決も導かない。

なんでどうしてと思った時こそ一歩引いて、視野狭窄に陥らないように。人生思い通りにいかないのが普通だ。「経験値がない」と言われることも、「そうですね、自分は大した力もない一市民なので……」と思うことでだいぶ穏やかに受け流せるようになった。

関心は持ちつつ、全部を知った気にならない。応援は祈りであって、期待してはならないと戒め、深入りしすぎない。SNSが普及して怒りの地雷に出くわす機会も増えたけど、そういう臭いがしたら距離を置く。40を過ぎてようやくそれができるようになってきた。

自分の力でどうにかなることなんか、筋トレくらいしかないんちゃうかな。最近はそう思う。

今日もせっせと猫背改善筋トレに励みつつ、「誰かを幸せにする働きができる時がいつかくるから、腐るなよ、がんばれよ」と、自分にはもう少しだけ期待をかけてみる。