桜庭一樹さんの『読まれる覚悟』を読んだよ
桜庭一樹さんの『読まれる覚悟』を読んだ。読者との距離、批評家との関係性、また小説に思想性を持たせるかどうか、また小説独自のファンダムといった改めて基本的に大事なテーマを、桜庭さんがどうしているか、どう思っているかを綴ったもの。正直で、認めるのが苦しいことも受容して、それを語れるようになっている姿勢に感化された。まさに自分もいま、必要なことだなと。
自分が、年齢的に社会の変化についていけていないのではと、感じるときがある。でも新しい価値観に出会ったときに、それは「まったく聞いたことがなかった」なんてことはない。だからつらい。昔からあったことなのに、注視してこなかったことだからだ。すでに自分なりに浅薄に解釈していたことだったり、深く重点を置いて分析してこなかったことだったりする。だから、新しい価値観に出会った時には「自分が思ってきたことと齟齬があるから」驚いてしまう。この本を読んで改めて、学んで間違いがあれば認めて受け入れて、考えを変化させていくことが必要なのだと理解した。
あと、この本を読む一般の方と、映画評論を仕事にしているわたしでは、多少立場が違うから、感想も異なるとは思う。わたしが立ち止まって改めて考えたのは「新人の作品を批評すること」で、そして今の態度はほぼ変えない(変えられない)けれども、一言付け足すような軟化を取り入れようと思った。ちなみに今は、若手の素晴らしい作品に出会ったら、とにかく褒めるようにしている。宣伝の方にも「これは傑作です。観て良かった」と伝えるし、SNSにも書くし、媒体で書けるチャンスがあれば書く。自分の影響力はいま、大幅に減ってしまったと客観的に感じているけれども、それでも10人くらいの人が「じゃあ観てみようかな」と思ってくれたらありがたいので、とにかく素晴らしい映画は素晴らしいと書く。
最近だと五十嵐耕平監督の『SUPER HAPPY FOREVER』を激推ししていたが、「ハ?あなたの声なんて全然視界に入ってこなかったですけど?」と思われているかな~と、被害妄想がちょっとある。わたしは「真魚さんが推しているから観た」とは、数人の方が言ってくださるくらいの、わりと見下された批評家なので……。
新人の作品で、ピンとこなかった映画は観ていないことにしたり、小声で短く「自分には合わなかった」とチラリと書いて済ます。何が悪いとは、求められない限りあまり書かない。
ま、以上は極個人的なことで本の感想とは違うので閑話休題。でも振り返ってみて、アップデートに関する意見が自分としては納得がいった。痛いなと思いながら日々、徐々に行っていることだったので、間違っていなかったなと思った。時事性という社会のうねりの中で思想的なメッセージをどうするかという問題は、わたしは積極的に入れている。新聞でも入れさせてもらっていて、新聞社には批判も届いているかもしれない。でも自分が信じている倫理は貫くようにしているし、それは全体的に、特に女性の書き手で意識的な方が増えている印象がある。桜庭さんも韓国の小説家、批評家に文字数を割いて言及されているし、韓国の書き手たちの方が先行していたのも確かにそうだと思う。
この間違いを認めていく成長というものは、まだ間違うし、そのたびに自分で気づくことができればまだしも、人に指摘されると焦る。人によっては荒々しく、または嫌味をこめて指摘をしてこられたりするので、心臓がバクバクしてしまうけれども、こちらの間違いなのでありがたく学ばせていただく。そういった言葉の間違いをそもそもしないように、そしてやってしまったらすぐリカバーするように、神経質になっているのが現状だ。日々本を読んで勉強するのは、単純だけど当たり前に大事なことだなと思う。