ただ言い訳をつけて、みんなに会いたいだけなんだ
もう2月も終わる。3月がやってくる。
これまで3月といえば卒業・別れの季節であり、春からの新生活に緊張する月であり、寒いんだか温かいんだかわからない時期であり、気が付けば通り過ぎていくものだった。
そんな3月に、娘が生まれたことで新たな顔が加わった。
女の子の祭典「ひなまつり」である。
「伝統を重んじたい私」と「めんどくさい私」
娘が生まれて来る前、私は「ハーフとして生まれてくる娘には、アメリカの文化も日本の文化も、ちゃんと教えたい。ことさら季節行事はちゃんと経験させてあげたい」と思っていた。
私自身、日本の正月や夏祭りも、アメリカのハロウィンやクリスマスも大好きだ。その時期が迫ってくるだけで、さまざまな思い出が蘇り、人生を彩っているっていう感じがする。
ところが娘が生まれて驚いた。行事って結構たくさんあるんだ!
まず最初は「お宮参り」。出産という大仕事を終え、一息つく間もなく1ヶ月の赤子を抱えて神社を参る。出産前にお宮参りをしている人たちを見ると「幸せそうだなあ。私も生まれたら…」と考えてはいたのだけれど、実際やるときになったら、参拝する神社を決めるところからすでに面倒で仕方がない。
そして産後100日なんて数えてもいられないままに過ぎてしまえば「お食い初め」である。赤子が食べられもしない食事を、赤子のために作る。レストランを探すのも面倒、家族と予定を合わせるのも面倒、鯛も高い。「赤子が食べ物に苦労しないように」という祈りを込めて、と言われるとどうも弱いのだけれど、ああん、赤子が生まれて軽くなったはずの重い腰が上がらない。
特にこういうイベントは、赤子の反応が全くないのも辛いところだ。喜ぶ顔が見られるのであればやる気も出るが、きょとんとしていたり、慣れない行事に大泣きされようものなら、やらなくてもいいか~となってしまう。
お食い初め、号泣。
おかあさまさま
重たすぎる腰を、私がしぶしぶしぶ上げられるのは何をおいても母のおかげである。母は堅物の古い人というわけではないが「そういうの、ちゃんとやろ」という人だ。生返事をし続ける娘に「お宮参りの神社決めよ」「お食い初めやろ」「雛人形買お」と(しつこく)突っついてくれる。
何度、喧嘩しただろう。
「もういいよ、やんなくて」「そんなやる意味ある?」「もうやめよ」
本来であれば母親である私が考えなきゃいけないのに、という小さな罪悪感と面倒臭さが苛立ちに変わり、何度も母に八つ当たりをした。出産を経て、物理的には母親になれた気がした私は、まだまだ娘の側だ。
それでも母が諦めなかったおかげで、私たちは酷暑のお宮参りを済ませ、最後の一匹だった鯛を買い、雛人形を飾った。やってみれば、生後1ヶ月での家族写真は他にない宝物になったし、鯛をみんなでつつくのは楽しかったし、娘の雛人形は自分が持っていたものよりも気に入ってしまった。
行事にかこつけて、思い出がつくりたいだけ
何よりも、赤子を囲んでみんなでわいわいするのが最高に楽しかった。集合写真を撮るのが楽しかった。大人の自己満足だと言われてもいい、実際そうだし。でも今回の初節句は、じいじ・ばあばにちやほやされ、菜の花をかじらせてもらい、娘もなんだか嬉しそうだった気がする。
私が季節行事に心躍らせる理由は、「その時期が迫ってくるだけで、さまざまな思い出が蘇り、人生を彩っているっていう感じがする」から。そして蘇る思い出は、家族で過ごす楽しかった時間だ。
これから、私は毎年この時期にお雛様を飾るだろう。でもそれは「娘がお嫁にいけるように」でも「娘の健やかな成長を祈り」でもないことをここに小さな声で白状する。
私は行事にかこつけて、みんなと思い出を作りたいのだ。
みんなで集まってハマグリじゃなくてあさりでいいからお吸い物がすすりたいし、「そういえば初節句のときさ」と思い出話がしたいし、「ああ、今年もこの季節がやってきたねえ」と顔を見合わせたい。
それが行事のわくわくの正体だってこと、娘にもいつかわかる日が来たらいいな。
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