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「好きに生きていい」と言うのが案外むずかしい

友人のダンス発表会に行ってきた。音楽に合わせて体全体で表現する彼らは本当にかっこよく、ダンスコンプレックス(ずっとダンスがやってみたいと憧れつつ、その機会に恵まれず、さらにセンスもないままに大人になってしまった状態の意)の私としては「すげー!かっけー!」と興奮していた2時間だった。

でもダンスを見ながら、私は気づいてしまった。

またしても「娘にもやってほしいなー」と思っている自分に。


「娘には自分の好きに生きてほしい」と本当に心の底から思っている。自分も好きなことをして生きてきた。私が好きとかいいと思うとか関係なく、娘には自由に選択してほしい。

だけど心のどっかでは、実は「こうなってほしい」という小さな願望がいくつもあるのだ。それに最初に気がついたのは、娘の1歳の誕生日で「選び取り」をしたとき。

「選び取り」というのは、1歳になった子どもの前にいくつかの物を並べて、子どもが最初に手にとったもので将来の職業や才能を占うという、まあ大人がわいわい言うための楽しいゲームみたいなお祝い行事だ。

たとえば、電卓だったら「商売上手に!」筆やペンだったら「芸術や物書きの才能!」スプーンだったら「食べ物に困らない!」などなど……

もう一度言うけど、心の底から「どれを取ってもいいんだよ」と思っていた、本当だ。

だけど、娘が真っ先にペンを取った瞬間「うおおおおおペンだーーーー!」と雄叫びを上げてしまった。ごまかしたかったけれど、自分で録画していた動画に、雄叫びはばっちりと収まってしまっている。

電卓だったら雄叫びは出ただろうか、たぶん出ていない。ペンだったから、私は歓喜した。つまり私は、娘が自分と同じ文系であること、自分が目指している書く才能を持つこと。それを無意識に願っていたし、期待していたんじゃないだろうか。


それに気づいてから、娘の行動で私が喜ぶことは「これを娘に期待しているんだな、私」と自分で分析できるようになってきた。

テレビに興味を示さずに、本を読もうとしている、とか。

動物や草花に興味を持って、やさしく触ろうとしている、とか。

周りの人にニコニコと笑いかけて、人見知りしない、とか。

ピンク色よりも、緑色や黄色を選ぶ、とか。

娘がそういう行動を取ったとき、私はきっといつも以上に笑顔で喜んでいるだろう。自分が期待している行動を取ってくれているからだ。

でも、ここに書き出してみて思う。

なんて自分勝手な、大人の都合ばかりの期待であろうか。

テレビが大好きだっていいのに。動物がこわくて嫌いだっていいのに。人見知りしたっていいのに。ましてや、好きな色なんて何でもいいでしょう!

この子は、この子のままでいいのに。


私も人の子、母である前に平凡な人間だから、きっとこれからも事あるごとに「こうなってほしいな」という気持ちが芽生えると思う。

お友達がたくさんできたらいいな。勉強はできなくてもいいから得意科目があるといい。ディズニー映画は、ライオンキングがお気に入りになるといいな。海外に興味を持ちつつ日本文化も愛してほしいな。こんな部活に入ったらいいな。こういう服装が好きだといいな。こういう音楽を聴いてくれたらいいな。

………うるせえーーーー!!!パターン(娘が出て行く音)

出て行ってほしくないので、ここまで口を出すことはないだろう。考えてみれば「英語が話せるようになってほしい」という願いがすでに、重たい期待を生まれながらに背負わせているのだ。

自分の隠れた小さな期待や願望。娘に気付かれるよりも先に自分で気がついて「あ、いっけね、この子はこの子の好きなように生きればいいんだった」って思い出せるだけでも違うような気がしている。

「好きに生きていい」と本気で思っているはずなのに、特定の「好き」を押し付けそうになる。なんだか子育てってむずかしいぞ。


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