いまだからこそ、不条理演劇
増え続ける感染者数、心休まらない年末年始。
2020はまさに大変動の一年、失業したり、収入が増えたり、休みがなかったり絶望したり転機を見つけたり。言語も国も関係ない、誰にとってもこの大変動はそれなりの同様と適応までの時間がかかったと思います。
私はこの今の状況がまさに不条理演劇の舞台設定の特徴である
「行動と結果の因果関係が成り立たず、閉塞感の中に埋もれていく登場人物たち」
が現実になっているように思えるのです。
不条理の哲学は不条理に対する解決策として三つあると言います;
-Suicide 自殺; 己を殺すこと。もっとも非現実的な解決法なので推奨されていない。
-Religion 宗教; この世や自分以外の何かにすがること。現実逃避とも言える。自分でもない、閉塞感でもない何かそれ以上の支配力があるもの故に自分は今こういう思いをしているんだという解決方法。
-the acceptance of the Absurd 不条理の受け入れ; 不条理性を受け入れてしまうこと。行動と結果の因果関係が成り立たぬ世界では不条理さを受け入れ、存在し続けることに徹底した方がよかろう。
この三つはコロナパンデミックというなんとも言えない不条理で不毛でコントロールが効かなくて誰のせいでもなくて、
世界のどこに行っても逃げ場のない、そう、閉塞感の中での解決方法に類似しているような気がしてならないのです。
コロナでの死者数よりもコロナ禍での自殺者数が超えてしまった時期。
「私にはジーザスの洗礼があるからコロナに対する免疫があるわ。ジーザスが守ってくれているもの」という熱狂的カトリック信者のトランプキャンペーンのマスクをつけない理由。
ワクチンが出てもコロナはきっとこれからも続く。2021は「コロナ前に戻ろう」ではなく、コロナ禍で痛感したこと、学んだことを改善しながら新しい道を拓いていかなければ、今の大変動期を不安定さも新しい発見も含めて受け入れて進んで行かなければいけない、という受け入れ。
このようなまさに不条理演劇の中で人生の不毛さ、不条理さを描いた芸術のジャンルが現実になってしまったこの世の中。
だからこそ、今こそ、不条理演劇が再びコンテンポラリー(現代)演劇に戻ってくる気がしてならないのです。
いや、今まで積み重ねてきて、やっていれば大丈夫っしょという概念がコロナで、この一年で行動と結果が必ずしも繋がるという概念が形を変えて行っている、だからこそ不条理演劇での不条理さが、登場人物たちが一生懸命閉塞感の中から変化を起こそうとあらゆる手を使ってもがくけれでも最終的には三つの解決策のどれかに治る、そして観たものの中で生き続けていく、
そのような見えない何か、不条理演劇ならではの目に見えないインパクトが人々の心に響くと思うのです。
不条理演劇は英語で理解して論文書いてプレゼンして読んで観たけれども、不条理演劇は言語の壁を超えて、さらに発展していく。
日本で2021年、どんどん不条理演劇、サミュエルベケットを軸に創作・搜索して生きたい。
単独公演もやる。
今一生懸命生き続けている人たちがいるからこそ、不条理演劇。