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いつまでもあると思うな推しと自分

はじめに

皆さんには「推し」がいますか。
アイドルでも、作品のキャラでも、はたまた人間以外でも、そもそも生きていないものでも、っていうか概念レベルでも
「好き!」「これは推し!!」って言えるモノはありますか。

私にはいろんなところに推しがいます。
『「推し」なんだから1個に絞れよ』
という声があるかもしれませんが、これはあくまで「推し」なので別に複数あったって良いと思います。
っていうか、正直恋人ですら1人じゃなくたって良いと思います。

お話がそれちゃいましたね。
これは、私が自分の好きな人、モノ、コトを
「これは私の推し!」と心から大きな声で言えるようになった記念のnoteです。

私に推しができた

私が明確に「好き!」とハマったモノは、原作・映画全部を含めた「ハリーポッターシリーズ」でした。
特徴的な4つの寮、魔法が溢れたお城。魅力的なキャラクター達。
王道だからこそ飽きさせないストーリー。
今でも心から大好きと言える作品です。
私はハリポタがきっかけでファンタジー作品にどっぷりとハマり、
・指輪物語
・ホビット
・ナルニア国物語
・ゲド戦記
・サークルオブマジック
・西の善き魔女
・勾玉三部作
などなど、有名所のファンタジー作品はすべて読破しました。
ハリーポッターは私の読書の世界を広げるにあたって、間違いなく大きな影響を与えた作品であり、「「「推し」」」なのです。

PS5のHogwarts Legacy、楽しみだなあ〜。
PS5、当たらんなあ〜…。

それを大声で言えたか

言えませんでした。
なぜなら、あくまでもハリポタは児童書。エンタメだからでした。
我が家では、「このエンタメが好き!」と言えることが許されていたのは
父が「漫才・落語が好き」と言うことだけだったように思います。

それでもハリーポッターが特に禁止されなかったのは、あくまでも読書の延長で、読書は「良いこと」だったからでしょうか。
(それでも、私がハリポタにのめり込み過ぎてたときにハードカバー本を真っ二つにされたりしましたが。)

ここで強調したいのは、あくまでも「ハリポタ(≒エンタメ)が禁止されていたわけではない」ということです。
私が様々な媒体でエンタメを楽しんでいようものなら(今で言うヲタ活、でしょうか)、
「そんなのが好きなの?」
「しょーもない、くだらない笑」
とどこか冷笑的な一言を残していくのが父でした。

母はそんなときに、かばってはくれませんでした。
というか、結局今に至るまでそんな父を変えることができなかったのは勿論、決定的に声を荒げて私のために立ち上がってくれた記憶がないのです。
そのため、私から見ると母は父と同罪に見えるのです。
(ここがどうしても母に理解してもらえない視点です)

そしてどうなったのか

この「禁止ではないが冷笑される」というのは本当にtoxicで、結局私はアラサーになるまで大声で「これが好き」と言えませんでした。

中学生になり、リアルな人間の「推し」ができました。
それが、嵐でした。ニノが最推しだったな。
2007〜2008年頃だったので、
Love so sweet, One Love,  truth, Beautiful Days
周辺の頃といえば伝わるでしょうか。
友達がコンサート"Time"のグッズを持っていて本当に羨ましかった記憶があります。
当時のコンサートの当選倍率はどれくらいだったんだろう。
結構嵐のコンサートグッズ持ってる子いたし、今ほどではなかったんだろうな。行ってみたかったな。嵐のコンサート。

またまた話がそれてしまいました。

もうおわかりかと思いますが、
コンサート、ましてや男性アイドルのコンサートなんて許されるわけがない家庭でした。
そして、大好きな読書を含めて
「好きなことを好きと言いたいなら成績を上げろ」
という噛み合っていないIf文をよく遠回しに言われていました。
「◯◯を好きって言いたいならもっと勉強しろ」的な。

この植え付けは本当に根深くて、
大学生になってすべてが開放されたような気になっても
「嵐のファンクラブに登録する」ことがとてつもなく悪いことのような気がして、結局社会人になるまでファンクラブに登録することが精神的・心理的にできませんでした。
…とかやってたら嵐さんの方が活動休止したり、推しが結婚したりしました。
推しの結婚はとやかく言わないけど、「ウワ、私も含めもうそんな年か…。」
と思ったのを覚えています。いやこれ結構ショック。
推しはいつまでもいてくれるわけじゃないんだ。

好きなものを好きという権利は誰にも侵害されない

何が言いたいかというと、
「推しが好きだ」と心から言えない環境は、結果的にその人を壊します。
それはさながら、本当に真綿で首を締めていくような感じです。
それ自体が「こ◯すぞ」のような決定的な殺傷能力を持つ言葉でないからこそ、たちが悪いのです。

私が大学に入って一番感じたのがこれに関することでした。
「好きを好きと言える人には敵わない。」
これがあまりにも悔しくてつらくてどうしようもなくて、何度も泣きました。

誰が何を好きでいようと、それを否定する権利は誰も持ち合わせていないのです。
それを誰もが頭においておいてくれればなあと心から思っています。

そして、これだけではないですがいろんなことがチリツモした結果、今になって色々噛み合わない事象が発生している26歳です。
そして実は私は軽度の双極性障害と診断されて、毎晩薬を飲んでいます。
お陰様で軽度なこともあり、なんとかなっています。

なんとかなってはいますが、経験しないに越したことはないことだとも思っています。

最後に

自分が好きなものを大声で好きと言えるようになった記念として、筆をとったのがこのnoteでした。
ですがやはり自分のメンタルを抉る記事であることは変わりないので、文章がどうしてもあっちへいったりこっちへいったりしてしまいましたね。
分かりづらい文章で読みにくかったと思いますが、ここまで読んでくれたあなたに最大級の感謝をいたします。

ありがとうございました。


いつまでも、あると思うな推しと自分。
自分が壊れる前に、推しへの愛を叫べる場所をぜひ見つけてください。

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