お釈迦様にハマってる(駄文)
近頃お釈迦様にハマっている。
仏教やそれについての色々な人の解釈が面白い。
宗教と哲学は絡み合ってるせいで自ずと宗教に興味がわいたのだけど、こう、肌感覚があうのだ。
物心ついた時から毎朝仏壇に手を合わせてて、思春期にやらなくなって、いい歳になってまたやってる。
「悪いことしたらバチが当たるよ」という言葉の説得力。
「お天道様が見てるから」という言葉の納得感。
そういうのは小さい時からの習慣のなせるわざなのか…。
勝手に、お釈迦様は理知的で博愛だと感じている。
たまに出会う、次元の違う賢く聡明な人、そういう人のもつ軽やかな物腰と爽やかな空気を感じる。
そういう人の言葉はすんなり腑に落ちてくるもんだ。
大人になって知的好奇心に拍車がかかり、できることなら日がな一日、本を読んでいたいのだけど、まぁ、そういうわけにもいかないし、読んだそばから忘れていってしまうし。
果たして死ぬまでにどれだけの言葉と考えに触れることができるのか、そうやって真如を垣間見れるのか。先は分からないけれど、とりあえず目先のことを一生懸命やろうじゃないか。
今まで執着し続けてきたことをどう断ち切ろうかという悩みのどんつきで見事に現れたのがお釈迦様だったんだなぁと勝手にドラマチックにして考えているのだけど(こういうのが、ね、俗物!)、人間の思考の豊かさと自由さと逞しさを手にするために何千年も前からずっと語りかけてくれてるのがお釈迦様なので、いやほんと、頭が下がる思いですな。
ソクラテスにしろキリストにしろ釈迦にしろ、“対話”を一番大切な手法にしてたってのはとても素敵な気がする。
派生で色々あれど、根本は人間達の人間としての在るべき姿を求める愛なんだよな。
先日教えてもらった「登山口が何ヶ所もあれど辿り着くのは同じ頂上」という話のまさにその登山口の1つに足をかけてる感覚がある。
この山を登るエネルギーは愛でしょうな。人類愛。
いやぁ、でも、まだまだそんなエネルギーを使えないな。私は未熟だから、とりあえずの間は好奇心で登っていくな。
あと10冊くらい本を読んで、自分の中の雰囲気をまとめようか。
何十年かかけて自分の中で仏の教えというものが何かまとめられたらいいなぁ。
誰に伝えるでもない、自分の流儀がまとまったら、カッコ良いだろうなぁ。