自分の成長を感じたとき

フランスに来てすぐ、フランス語で授業を受けはじめて、言語のせいでわからないところが出てくると、そこから急に理解しようという意識を失って「ネイティブじゃないしわかんないのしょうがないよね〜」とか「それでもまあテスト半分取れたしいいんじゃない」とか思って自分を守ってた。そして、それはそれで一つの在り方だと思う。ストレスにあふれた新生活で、自分の身を守るための自己防衛本能に基づくものだったのだろう。

けれど、今日は違った。わからないぞ!と思った瞬間、焦り、これをわかるにはどうすればいいのか、と自問自答し、ちょっとしたパニックにさえなった。このことは、自分がきちんと目の前の問題に向き合おうとしていたということに違いなかったのである。そのあと先生に質問に行き、きちんと疑問を解決した、というより、聞いてみると実は先生自身もあまり好きじゃなくてよく勉強してないし、自分の説明がわからないことは気にしすぎることはないよ、といってくれた。よくも悪くも試験には出さないんだってさ。

自分が理解できないことを、フランス語のせいにしなかった自分。何語で説明されたって、「この人が伝えようとしていることをわかりたい」という自分の意思は変わらず存在していて、そのことがなぜかものすごく嬉しかった。

妥協していいときとしてはいけないときとある、というのはつい先日のnoteに書いたばかりだけれど、今日それについてさらに思ったことは、ここで私のいう妥協とは、自分が自分のできる限りのことをした上で、そのことに対して自信を持って肝を据え、その後自分がどうにもできないことについてはもう流される他ない、ということなのだと気が付いた。だからやっぱり、妥協には妥協のしどころがあるのだ。何でもかんでもに「しょうがない」とか「これが人生だもの(C'est la vie)」とか言ってしまってはいけないのだ。

自分が今できることをすることに対しては真摯に、真面目にいようと誓うための、本日のnote。

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