国籍と「他」

今日の学び

国籍とは何か
ギリシャ時代の国民国家と民主主義を源流に、18〜19世紀に「北」で広がった、西洋的価値観。

・国境の内にいる人に与えられる
・その国からの保護が与えられる

国籍を与えられることで、
・所属意識
・権利と義務
が生まれる。

国内で共有された「より良い市民」の育成のための教育。
→特に男性の育成が、初期は強かった。

国籍の広がり
社会的・文化的・政治的・経済的西洋が力を持つと、「国民国家」という「現代的」な国のあり方を基準とし、それに従っていない国を未発展と定義づけた。

基準的価値観
・現代社会は、形成社会
・政教分離
・王政統治の撤廃
・個人の自由と責任、男性の権利の平等
・ヘテロセクシャル主義

未発展を、発展させてあげる必要があるという解釈のもと、植民地の広がりと共に、自分たちと異質な存在とカテゴライズするために、国籍というものが広がっていった。

国家という幻想
そもそも、国家というものは人々の幻想によって作られているもの。
人が共通認識として、「ここからここまではA国」を持っているから、国なるものは存在するが、本来はただの広大な土地。
→教育をすることで、国の一員という認識を持たせる。

その一方でグローバル化が進み、国際機関・国際NGOなどの国際統治、移民の増加による「国民国家」の崩壊、テクノロジーによる無国籍性や環境問題などの国際的協力が必要になり、ポスト国民国家ではないかという考えもある。「A国民」という縛りではなく、「国際人」という考え方。

De Genobaの“Citizenship‘s shadow”の論文でも、
国籍を与えるのはいいこととされ、国連でも無国籍を生まないための政策を掲げているけど、国籍を与えるということは、「A国」とそれ以外という他者の存在を構築させ、より溝を生み出すって批判してあった。

実際に、現代の国際社会を見ていたら、グローバル化に対応できるのは一部のエリート層であり(経済的余裕があるから他の国に行けるなど)、移民への排他的言動とか、国境封鎖などを見ていると、より内的思考、ナショナリズムが強まっているとも言える。

生の政治(Biopolitics)と死の政治(Necropolitics)
「他者」「排他性」というものが生まれることから、Faucaultの生政治とMbembeの死の政治の概念が出てきた。

生の政治:
まず、人間を身体的個として捉えるのではなくて、誕生・死・生産・病気などのプロセスを備えた大きな塊として捉える。(身体ではなく人種・種への注目、個より集団への注目)

保険・食料などの面で、誰をを生かすも殺すも政権が握っている。
だけど、死を与えるよりも生に積極的に介入しようという考え。

よりよく市民を生かし、管理・運営をしようという権力のあり方。
自由にさせるけど、底辺で手綱を握ってコントロールする。

死の政治:
恐怖心による支配
→抵抗・犠牲・恐怖の再配置

Judy Butlerの性政治と移民
性的マイノリティの受け入れ=西洋的で現代的な価値観
→それが受け入れられるかを、移民、特にイスラム教徒に問いかけることで、「他者」を生み出しているのではないか。

イギリスの国籍政策
2014年〜16年の間に、移民受け入れ国として政策を緩めた。
移民局だけでなく、土地・保健・教育など、さまざまなアクターが分業している。
Yuval Davisは2017年の論文に「everyday bording」というぐらい、日々人の出入りがあたり前となっている。
その一方で、入国した時期などによっては、50年以上イギリスに滞在していても国籍が取得できずに困っている人や、ISに拉致されたイギリス国籍のムスリム女性が帰国できないなどの問題もある。

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自分の中での不明点

・死の政治
・Judy Butlerの主張
・国籍と教育のあり方

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個人的見解

国家が人々の幻想で生まれているっていう発想。
国籍をあえて誰にも与えない方針。
斬新で、確かに!って思う反面、国籍を与えなかったとしても、何かしらの形で、必ず「他」の存在を作り上げ、自分という存在と線引きをしたがるのが、人間の深層心理な気がしている。
自分と他者を作り上げることで、自己防衛的な役割を担っているんだと思うけど、結局、その防衛している相手が攻撃してくるっていうのも、ただの幻想でしかなくて。どうしたら、その鉄壁を作るという心理を無くせるんだろうなぁって。

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