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江戸後期の天然痘予防:緒方春朔とエドワード・ジェンナー
天然痘は、1980年にWHOから撲滅宣言がでています。ジェンナーの牛痘ワクチンの普及による「感染症に対する医学の初勝利」とも言われています。ワクチン開発の前に人痘種痘法がありました。イギリスと日本を行ったり来たりの天然痘予防の話をします。(小野堅太郎)
初めに言っておきますが、これから話す人痘種痘法は、エドワード・ジェンナーの始めた牛痘ワクチンと期待する効果は同じであっても、医療行為としては原理が根本から違うものです。ワクチン開発以前の話として理解してください。人痘種痘法は、現在は禁止された予防法です。しかし、人痘種痘法に取り組んだ医者達は決して非難されるものではなく、ジェンナーと同じ意志に突き動かされて行った人たちです。ワクチンが理論化されるのは、19世紀後半フランスのパスツールの炭疽菌ワクチンからですので、ジェンナーと緒方春朔の医療モラルに違いがあったわけではありません。
人痘種痘法は「少ない病原体感染で症状を軽くして免疫を得る」という考え方ですが、感染してしまえば体内で致死に至るほど増殖してしまう可能性があり、大変危険です。一方、牛痘ワクチンは「人痘と類似しているがヒトでの症状が軽い牛痘を用いて免疫を得る方法」ですので安全性が格段に高いです。さらに付け加えておきますが、現在のヒト研究倫理から判断すると、ジェンナーもパスツールも研究世界から追い出されるようなことをやっています。2021年に世界中で接種されているRNAワクチンが如何に安全性に強く配慮された過程で使用されているかを知っておいてください。
さて、これまでにペストの話を何回かしてきましたが、この天然痘も人類を苦しめた感染症の代表格です。感染した人の5人に1人が亡くなっていますし、生き残った人たちにも身体に瘢痕が生涯残ります。日本の有名人でも伊達政宗、吉田松陰、夏目漱石が天然痘感染後のサバイバーです。天然痘に関しては紀元前から記録があります。歯科医療の歴史シリーズのラーゼスも「天然痘と麻疹の書」を残しています。
人痘種痘法は15世紀に明国で始まったとされています。これは天然痘感染者の病巣のかさぶたを取り、乾燥させ、微量を鼻から吸引させるという方法です。明国のものと関連しているのかどうかわかりませんが、17世紀にはコンスタンティノープル(現在のトルコ)やアフリカのスーダンで、健常者の切り傷に微量の膿を刷り込むという人痘種痘法が広がります。
コンスタンティノープルに駐在していたイギリス大使の妻メアリー・モンタギューは、1721年にイギリスに戻ると人痘種痘法を広げます。確かな成功例を得て、王室から注目されます。1783年に4歳のオクタヴィアス王子に人痘種痘法が行われたところ、天然痘を発症して亡くなってしまいます。ワクチンのように明らかな弱毒化をしていませんので、体内で重篤なレベルまで増殖して死に至ることがあったわけです。死亡率は2%ほどと言われていますので、50人に1人です。無感染の人に積極的にやる予防法としては、ワクチンの存在する現代では禁止となるは当然です。
日本は江戸末期です。緒方春朔は1748年に久留米で生まれ、医者の家系である緒方元斎の養子となります。長崎遊学中に清国の医学書から人痘種痘法を知ります。秋月藩藩医となると1790年、地元の庄屋の子供二名に自分で改変した人痘種痘法を行います。これを機に秋月を中心として子供たちに彼の人痘種痘法を使って天然痘予防を行います。1795年の「種痘必順弁」に「数千人に接種したが死者はない」といった記述を残しています。
舞台をイギリスに戻します。1770年、歯科医学にも業績を残した外科医ジョン・ハンター42歳の講座に学生として21歳のエドワード・ジェンナーがやってきます。後に実家へと帰ったジェンナーですが、ハンターとの文通で励まされながら、新規天然痘予防法の開発を目指します。人痘種痘法により王室にも死者が出ています。ジェンナーは子供の頃から乳しぼりの女性は天然痘に罹らないということと、牛特有に発症する天然痘様の病気「牛痘」が気になっていました。実験大好きのハンターですから「実験して証明しなさい!」となったようです。有名な言葉「Do not think, but try. Be patient, be accurate.(考えるより、やってみよう。辛抱強く、正確に)」はハンターからジェンナーに送られた言葉のようです。ブルース・リーの「Don't think! Feel.(考えるな!感じろ)」もココから来てるのでしょうか。
ジェンナーは1796年に使用人の子供に初接種します(ハンターは1793年に既に他界)。翌年、その結果を論文投稿しますが、1例しか患者がいませんので、突き返されます。さらに2例を追加して、「Inquiry」と題して自費出版します。これが注目されて一気にジェンナーの天然痘予防法が広がります。1840年にはイギリスではジェンナーの方法以外の予防法が禁止されます。
日本に戻ります。1810年に緒方春朔が亡くなります。その年に、入れ替わりで生まれたのが、後に適塾を運営するの緒方洪庵です。この緒方洪庵の努力によりジェンナーの牛痘ワクチンが日本中に広がります。春朔の人痘種痘法を受けた患者よりも、適塾関係者が広めた牛痘ワクチンの接種者は遥かに多いです。適塾塾頭の福沢諭吉と長与専斎も当然関係したでしょう。この二人は、ドイツ留学から帰ってきた熊本出身の天才細菌学者に伝染病研究所を与え、ワクチン製造により明治時代の感染症対策を行います。その天才とは、我らが北里柴三郎です。
北里柴三郎はドイツで細菌・免疫学で業績を上げ、揚々と日本に帰ってきたのに全く仕事がなかったのです。では次回は、北里柴三郎のお話に移ります。
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