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言語化の重要性:ギャンブルと寺山修司からの学び

パチンコ(パチスロ)、麻雀、カジノなどのギャンブルは負ける。勝てるわけがない。でもなぜか行っちゃう。その理由が自分では言語化できずにモヤモヤしていた。そんなモヤモヤが寺山修司の言葉でスッキリしたという話。(吉野賢一)

言語化の重要性:昼食時、小野先生と「言語化の重要性」について語ることがある。とくに彼は大学院生の研究指導においてその重要性を熱く(暑苦しく)語ってくれる。そして「教育は難しい」と毎度同じ結論にたどり着く。基本的にヒトは言語を使用して記憶、思考、判断、計算、理解、推察、創造、そして教育などを行う。日本語話者であれば日本語で「買うのは鉛筆」と記憶して文具店に行き、日本語で「120円の鉛筆を3本買う」と判断し、日本語で「120✕3で360円」と計算する。教育もしかり。小野先生の研究に関する記憶、判断、計算は言語化されて大学院生に伝えられる。大学院生はその指導内容を言語化して理解し、新たな研究を創造し、研究を遂行する。そして得られた結果やそれに基づく考察を言語化(英語化)して論文を投稿する。この過程での双方の不平不満は言語化されバトルが繰り広げられる。(参照:大学院体験記①

言語化の限界:ヒトは何でもかんでも言語化しようとするが、何でもかんでも言語化できない。その「何か」を完璧に言語化できず、上手く相手に伝えられないことがよくある。例えば、料理の味をグルメリポーターが「海の宝石箱や~」「味のIT革命や~」と叫んでも「美味しさ」はなかなか伝わらない。小野先生の「研究に対する思い」も不完全に言語化されてやいやいと伝わり、大学院生からいやいやされる(参照:大学院体験記②)。虫好きの私は「虫の魅力」を言語化できず、今も虫たちは妻や娘からギャーギャー言われる存在のまま。そして、ギャンブル好きの私は「なぜパチンコに行くのか」が自力では言語化できず、寺山修司の言葉に出会うまではモヤモヤしていた。

寺山修司の言葉:モヤモヤを吹き飛ばしてくれたのが「賭博には、人生では決して味わえぬ敗北の味がある」という寺山氏の名言だった。私がパチンコ屋に足しげく通ったのは、雀荘で指にタコを作っていたのは、カナダ留学中に3時間もバスに乗ってカジノへと向かっていたのは(過去形)、「人生では決して味わえぬ敗北の味」を求めていたからなのだ。自分の思考(嗜好)が言語化できたこの日、とてもスッキリしたことを覚えている。

人生で決して味わえぬ敗北の味:説明する必要があるとは夢にも思っていなかった。だが、この話をしたある人から「いいね、人生で敗北していない人は」と言われた。唖然、呆然。説明要る~?人生に敗北(勝利)とかそもそもないでしょ。それぞれの人生に勝敗なんてつけられない。「勝ち組」とか「負け組」とかいうのは言葉遊び。人生の過程でも、ある決断が良かったか悪かったかなんて随分後に、しかも比較できないからぼんやりとしか評価できないでしょ。でもね、賭博、博打、ギャンブルは違うの。「あ~、あの台に座るべきだった」「今日は行くべきじゃなかった」っていう結果が明確に、確実に、瞬時に出る。この「敗北の味」を「運のゴミ箱や~」「金のATM革命や~」と叫んで味わうわけです。

その日から妻に:寺山氏のお力により「なぜパチンコに行くのか」の言語化ができた日から、パチンコに行くときは「今から『人生では決して味わえぬ敗北の味』を味わいに行くから」と妻に告げるようになった。それまでは、頂面で「また行くの、どうせ負けるのに」と有難いお言葉で送り出してくれていた笑様(妻)は何も言わなくなった。「言語化の重要性」が実証された瞬間だった。

3回目の妻は:「敗北の味」を使用してから3回目のパチンコ。前2回同様「『敗北の味』を味わってくるからね」と告げた瞬間、笑神様は「いったい何回『敗北の味』を味わったら気が済むの」とおっしゃった。笑神様の言語化能力に感心しつつ、でも「の顔も三度まで」であることを知った瞬間だった。

ギャンブル依存症:「敗北の味」に対する閾値の低い(感受性の高い)人に起こりやすい。「敗北の味」に対する順応(慣れ)がほとんど認められず、その味を何度味わっても常に新鮮さを感じ、それを求め続けること。依存症の人には「敗北の味」を求めている自覚がなく、あくまでも「勝利の味」を望んでいると錯覚している場合が多い。以上は謎の脳研究者の見解であり、正しい解説は「脳科学辞典:依存症」などをご参照ください。 

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