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明治時代の感染症対策を担った研究者:シン千円札の北里柴三郎(後編)

前編では北里柴三郎のドイツ留学までを紹介しました。世界の細菌学研究者のトップ集団に入り、科学界からの評価を得た柴三郎は妻の待つ日本へと帰国します。後編では、柴三郎の日本帰国後の苦難と活躍について紹介しましょう。(小野堅太郎)

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帰国前

 ドイツからの帰国前に、柴三郎は熊本の医学校時代の恩師マンスフェルトに会いにオランダまで出かけています。また、コッホと並ぶ高名な細菌学者パスツールともフランスで面会しています。帰国の時期はというと、コッホがツベルクリンで結核に関して注目を浴びてる時期です。後ろ髪惹かれる気持ちで帰国の途についたのでしょうが、「日本の感染症対策」のために決意固く船に乗ったと思われます。

開国と感染症

 明治維新といえば「開国」です。300年もの間、外国人との交流がない状態でしたので、日本人には各種感染症の免疫がなく、パンデミックは日本国家を揺るがす大事件となる恐れがありました。内務省衛生局長である長与専斎は、適塾時代からの天然痘予防活動を通じて、下水道の整備から、水際対策としての防疫に力を入れていました。柴三郎の帰国する1992年には既に局長を退き、中央衛生会の会長に就いていました。

 帰国した柴三郎は、重用してくれた長与のいない内務省衛生局に戻ったわけです。輝かしい研究業績は知られているものの東大医学部の多くの教授陣からは「師匠の緒方を裏切った」と陰口をたたかれています。講演等で忙しい日々を過ごしていたようですが、なーんにもちゃんとした職位がない状態であったようです。これを「日本国の損失」と嘆いた長与は、適塾時代の尊敬する先輩、福沢諭吉に相談します。

 福沢といえば、明治14年の政変以降は政府関係者との交流を断ち、慶應義塾の経営難を何とか立ち直らせて、その後の大学経営からは退いている状態でした。いろいろあって政府側(伊藤博文)とうまくいっていない福沢は、成果を出しているのに認められない北里に自分を重ねたかもしれません。最終的に長与からの説得に応じ、自身の所有する土地と子弟である森村組からの資金拠出により「伝染病研究所」を設立します。

伝染病研究所

 1892年(明治25年)、39歳となった柴三郎は伝染病研究所の所長に就きます(大学入学時の年齢詐称のため、公式には35歳)。さらに、結核専門病院を開設します。しかし、この初めの伝染病研究所は、あまりにも小さくて研究に不十分なため、直ぐに移転改築となります。移転先で反対運動があり、進行は遅れたものの1894年(明治27年)に完成します。この年、香港でペストが流行したため、日本政府は柴三郎と東京帝国大学医科大学・初代内科教授の青山胤通と調査に出かけています。この時に、ペスト菌の発見を行います(後にいくつかの間違いが指摘されますが、初の英文医学雑誌「ランセット」に報告:柴三郎はドイツ語とオランダ語は堪能ですが、英語はできないので他の人に書いてもらってます)。この辺のドラマは、「北里柴三郎 雷と呼ばれた男」(山崎光夫著、中公文庫)でお楽しみください。また、翌年の東京でのコレラ発生には血清療法で対応し、多くの患者を助けています。

 研究所での柴三郎は多くの弟子を抱えるようになり、熊本弁で怒鳴るので「ドンネル」(ドイツ語で「雷」の意味)と呼ばれるようになります(おそらく「ぬしゃ、なんばしよっとか!!」でしょう「あなたは何をしてるんですか!」の意ですが、熊本外の人には恐ろしい言葉に聞こえるようです)。下に主な弟子たちの偉業をまとめています(ほんとに一部です)。

北島多一:コレラ・破傷風・ハブ毒の血清療法
志賀潔:赤痢菌の発見
秦佐八郎:梅毒特効薬サルヴァルサンの創製
宮島幹之助:寄生虫研究
梅野新吉:ジフテリア血清

 1896年(明治29年)は、北里柴三郎の反省の年です。新聞に愛人「とん子」のことが報道されてしまいます。さらに、恩のある福沢諭吉へ送った牛乳瓶に毛が付着していたので、福沢から呼び出され、激しく怒られています。

 1899年(明治32年)に伝染病研究所は国に寄付され、内務省管轄の国立伝染病研究所となります。1905年(明治38年)に伝染病研究所はさらに拡大移転され、コッホ研究所とパスツール研究所と並ぶ世界三大研究所にまで成長します。1908年(明治41年)には、恩師コッホを来日させて、日本中を案内しています。

北里研究所と慶應義塾大学医学部

 1914年(大正3年)、柴三郎61歳の時、何も知らされないまま、伝染病研究所が内務省から文部省へ移管されることが決まります。20年前に一緒に上海でペスト調査に出かけた青山胤通による画策でした。柴三郎は学生時代から内務省でバイトし、内務省に勤務し、内務省の取り計らいで留学していました。ですので、内務省管轄による国立化には何も問題がなかったわけですが、伝染病研究所の設立のときから文部省(東大)は足を引っ張る対抗組織でした。腹を立てた柴三郎は、伝染病研究所の所長を辞任し、翌年、寄付を集めて「北里研究所」を立ち上げます。実は伝染病研究所でかなりお金を貯めていました(経理の田畑重明については「北里柴三郎 雷と呼ばれた男」(山崎光夫著、中公文庫)を参照)。伝染病研究所の弟子たちは、柴三郎に付いていき北里研究所に移籍します。

 1916年(大正5年)には、郷里熊本の小国村に「北里文庫」という図書館を建てます(現、北里柴三郎記念館:トップ画像参照)。福沢諭吉は1901年(明治34年)に亡くなっており、1917年、生前から要望されていた慶應義塾大学医学部の創設に関わります。1923年(大正12年)には、日本歯科医師会の初代会長に就任します。1931年(昭和6年)に78歳で亡くなっています。

 ドイツ留学で研究業績を上げ、東大派閥と悶着ありながらも日本の伝染病対策に取り組み、後進の育成、医者の育成、医師の取りまとめなど、日本の医学・医療にトンデモナイ大きな貢献をした人でした。本記事では敢えて書かなかった逸話がネットにごろごろしていますので、是非検索してみてください!偉人としてだけでなく、人間、北里柴三郎も大変面白いです。

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 本記事の元ネタは「北里柴三郎 雷と呼ばれた男 新装版」(山崎光夫著、中公文庫)と「北里柴三郎 伝染病の制圧は私の使命」(北里研究所、2012年)である。前者はアマゾンで購入可能です。後者は、阿蘇小国町北里にある北里柴三郎記念館にて購入しました。ドラマ化されないかな~!


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