粛々と自己紹介をするはずが。(自己認識を疑いたい)
前回の記事は「書き出し」がマズカッタヨネ。
そう思ったので、今回はナニカとの交信はしないようにして、粛々と自己紹介していこうと思います。
MANA、37歳、フリーランス歴11年、女性です。
粛々と、なーんて言っておきながら定義を確認したくなるのは厳密性のなせる業でしょうか。(特に「言葉に厳密」と評判です)
シンプルに「そりゃそうよね」という感じ。
あまりにシンプルでつまらなかったので、Wikipediaさんも見てみました。
おー、いいですね、いいですね。
後半のこの部分がおもしろくて気に入りました。
そうね、そうね。
自己紹介が可能な部分は「あくまでも自身の認識している範囲内」、これは本当にその通りだなと思います。
なのでもしもその認識がズレていたり、認識範囲が及ばずにいたら、そもそもの自己紹介が相手にとって実のところ何の参考にもならないということがあります。(のちに親しくなって「あぁ、この人は自己認識があまり上手くないんだな」と理解を深めるものにはなりそうです)
そうなると思うんですね。
じゃあ、今私が認識している「私」って、本当に「私」なんだろうか?
(こういう話、好きよね、私。知ってる)
先に書いておくと、本人による本人の認識のズレがあることも織り込み済みで定義されているようなので(Wikipediaさんでは。辞書だとシンプルすぎて織り込み済みかどうかはわかりません。というかそこまで言及しないよね)、自分が認識している自分について(自己認識にズレがないか?)(本当に自分は「そう」なのか?)気にしすぎることなく紹介したら良いのです。
しかしですね、気にしちゃうわけです。
お相手は私の自己認識に基づく自己紹介を、ある意味一方的に受け取るわけなので、そもそもの「私」について出来るだけズレや及ばぬところのないように紹介したい。そのために「自己認識」すら疑いたい。
(どうやら自己紹介が書けない根元が発掘された模様です)
*
自己認識を疑いたい。
そう、そうなの。疑いたいの。
というか、常日頃から「自分のことは自分が1番わかっています」みたいな顔をして、いつだって自分のことを疑う頭を片隅に持つようにしています。
なぜって、今の私が認識している「私」は、これまで経験してきたこと、五感で感じてきたこと、思考してきたことを元に、あくまでも「私」のフィルターを通して認識してきたものであり、別のフィルターを通してみたら全然違うものかもしれない。
自己認識は(私の知覚内では)絶対だけれど、(私の知覚外では)絶対ではない。
そうなると、自己紹介をすることは「自己認識に誤りや及ばなさがあることを受け入れた上で行うこと」であり、しかもその先には自分以外の「他者」の存在がある、非常に勇気の要るものだなぁと思います。(考えすぎ?)
とはいえ、
自己紹介をした先、お相手がどのように受け取るかも「相手が人や物事を見る見方」に基づくので、結局ズレも及ばなさも必ずどちらかで(むしろ双方で)生まれるものだと思いますがね。
『同じ赤を見ていても、「自分が見ている赤」と「相手が見ている赤」が同じとは限らない』
みたいな話。(本当に好きね、こういう話)
*
粛々と自己紹介すると冒頭で書いておきながら、粛々と自己紹介するまでに至れず今回の記事はおしまいです。でも1つぐらいはしておこう。
えぇと、身分制度は日本にはないので、現代だと階級になる?
「旧中間階級」です。
※出典(https://www.l.u-tokyo.ac.jp/2015SSM-PJ/03_05.pdf)
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