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陽陽介護、やってみた。

 7月はじめ、職場がコロナに占拠された。
 私の職場は18人のスタッフが、シフトを回しながら、介護が必要な20名の高齢者をケアしている小さな老人ホームだ。
 コロナはいつの間にか潜り込んでいて、突然姿を現した。職員9人、入居者8人があれよあれよという間に感染した。
 「ついに、やられたか!」と落胆しつつも、感染を間逃れた職員たちでどう戦闘体制を整えるか思案していた矢先、私自身も発熱し、喉の痛みが出現した。まさかの「陽性」に、驚きはなく、むしろ笑ってしまった。
 自分が陽性となったことで、戦闘体制はすぐさま決まった。腹を括り、陽性の入居者全員を陽性の職員、つまり私が、一人で介助する、陽陽介護を志願した。もうこれ以上、大切な入居者や仲間を感染させるわけにはいかない、その思いだけが私を衝き動かしていた。迷いは一切なかった。
 法人上層部は当然渋ったが、"熱"のこもった思いは届いた。職員の感染が続いて判明したことも苦渋の決断を促したのだろう。

 かくして終わりの見えないコロナとの戦いが始まった。

 感染した入居者さんたちはというと、こちらも一部の方は感染初期に高熱があったり、咳は出ていたが、いずれも隔離後すぐに軽快した。医療的措置が必要になるような切迫感はない状況だった。後から思えば、たまたま感染しなかった入居者さんには酸素を使用していたり、全介助の方々がいたので、もしこちらの入居者さんたちが感染していたらどうなっていただろうと、感染者の顔ぶれに正直胸をなでおろした。なぜなら、私は、介護職の経験は乏しく、介護に関しては無資格だからだ。このホームでも施設長として、また生活相談員として働いてはいるが、介護の経験と言えば、職員が急に休んだときに、守備要員で現場に入り、大した活躍もできないまま、またベンチに戻るくらいの関わりがたまにあるくらいのものだ。

 20名の小さなホームの住人さんたちは、それぞれの個室(部屋)で暮らし、うち男性が2名、平均年齢88歳、平均介護度3.4、8割の方が重度の認知症状がある。その中で今回、陽性が判明した8名は、一人を除いて、生活管理がご自身では難しい認知症の方ばかりで、平均介護度こそ2.6くらいではあったが、それでもなかなかのツワモノたちではあった。
 上層部は医療機関の強みを発揮し、ホーム内をゾーニングし、感染した入居者の隔離部屋をエリアでまとめ、有無を言わさず引っ越しをさせ、テントを張る手軽さでビニルハウスを組み立て、感染防護具をたちまち用意し、その使用手順をすばやく職員にレクチャーした。私は当然そのビニルハウスのあちら側、つまり感染者ゾーンに追いやられ、ビニル越しにぼやけた向こう側(クリーンゾーンなどと呼び分けされ、多少むかついた)の職員とやりとりする環境に置き去られた(というより、自発的にそのエリアに残らざるを得なかったわけだが)。
 私のゾーン内の居場所は廊下の片隅の、本来車いす置き場のように使われていた空間にソファーを入れただけの僅か一畳程度のプライバシーもまったくない隙間だった。
 
 そんな状況下での陽陽介護。終わってみればおよそ240時間以上に及ぶ連続単独勤務になっていた。
 
 入居者のAさんは、ふらふら伝え歩きレベルの認知症の女性。お婆ちゃんというのがやや失礼に感じるくらい若々しく上品。ゾーニングの関係で、部屋を移っていた。
 ホームでは、ポリシーとして、よほどの理由がない限り、部屋を替わることはしていない。なぜなら環境の変化は、認知症に限らず、高齢者の心理に少なからず悪影響をもたらすことが多いからだ。
 案の定、Aさんは昼夜を問わず、ふらふらと自分の部屋を探して歩く、いままでなかったいわゆる「徘徊」(あえて、こう書く)が始まった。そして不安からかトイレと間借りしている部屋の頻繁な往復が始まった。トイレから出て部屋に戻るとすぐ扉が開いてトイレに向かう。この繰り返しが24時間以上続いた日もあった。Aさんの居室とそのトイレのほぼ動線上に、寝場所を構えていた私は当然、それにつきあわされることになった。
 ある日あえて「何かお困りですか?」と尋ねてみた。すると「主人を見ませんでしたか?」と言う。こんなことを言うのも初めてだった。「家に帰ってこないものですから」と切なげな表情でつけ加えた。「ご主人はどちらにお出かけなんですか」と聞くと「宇宙です。」と答えが帰ってきて、なんとも返事に窮したが、孤独感のような感情に支配されていることには違いない様子だった。

 Bさんは、唯一の男性。感染前から認知症の症状が変化してきていて意欲低下が目立っていた。感染後もますます無気力になり、それでもトイレだけは自発的に自分で車いすを足先で動かしトイレに向かったが、あとは全く微動だにしないと言っても言い過ぎではないような毎日だった。テレビの前にお連れするとテレビの前で同じ姿勢のまま何時間も動かず、洗面台に車いすの向きを変えれば、いつまでも洗面台に向き合っていた。夜間はベッドサイドに置いたポータブルトイレを使用していたが、コールで呼ばれた時にはすでに全身尿でビショビショになっている状態が続き(そんな状態にさせてしまったのかもしれないが)、毎晩パジャマやシーツ類を交換しなければならなかった。そうなる前に起こしてトイレに誘導したり、尿漏れしないようにパットのあて方をうまく工夫できたかもしれないが、この状況下で、しかも介護スキルの低い自分にはうまい対策が見当たらず、着替えのパジャマがなくなった頃、やむを得ず「一時的に」と自分に言い訳をして、オムツをあてさせてもらった。

 Cさんは、Aさんと同じく短期記憶障害が著名な認知症の女性。普段はとてもにこやかで愛嬌のあるお婆ちゃんだが、Cさんも部屋を替わらざるを得ず、結果、その翌朝から、目覚めて寝るまで、辺りをキョロキョロ見渡しながら「ここはどこ?」「あなたは誰?」「まったくわからない」と常に怯えたような表情で言い続けることになった。ホームの各居室は、壁や天井、備え付けの洗面台や家具はどの部屋も同じものなのだが、目覚めた時の窓の位置や家具類の配置の違い、その窓から見える景色や居室内にある別の住人の荷物などを四六時中理解できず混乱していた。隔離期間中、私はできるだけ彼女のそばにいるようにつとめた。

 普段から背中を丸めた姿勢で元気に歩き回るDさんは、認知症の周辺症状として他人のものを持ち帰る収集癖があり、短期記憶障害、見当識障害も極めて著しい女性。感染前も感染後もまったく変わらず神出鬼没に動き回り、他人の部屋に上がり込み、ときどきクリーンゾーンに「脱走」しては連れ戻され、職員が私に差し入れてくれたおにぎりをいつの間にか平然と持ち帰ったりした。
 普段と同じく、トイレやポータブルトイレを便で汚すことが多く、しかもしばしば自己摘便をし、手指が便の色に染まっていることが多く、辟易した。一見、なんの影響もない様子だったが、ただこのDさんにも異変がまったくなかったわけではない。普段は食事が終わったそのそばから「わたしご飯食べてないんですけど。」「食事はまだですか?どこに行けば食べさせてもらえますか?」と朝昼晩それぞれ幾度も、職員はもちろん、入居者や面会のご家族にまでも聞いてまわる習慣があったが、この隔離期間、不思議なことにしばらくピタッと言わなくなっていた。

 感染者の食事は、使い捨ての弁当箱によそわれ、汁物や飲み物は紙コップに入れられ、プラスチックスプーンが添えられた。
 それらを乗せるトレイは普段と同じものだったが、使用後は、まずスプレーの次亜塩素酸を吹きかけ、ビニル袋に入れたあと、そのビニル袋にも次亜塩素酸をふりまき、さらにビニル袋に入れてクリーンゾーンに出さねばならなかった。
 トレイのみならず、一度感染者エリアに持ち込まれたもので、クリーンゾーンに返却しなければならないものはすべて同様に処理しなければならなかった。
 私以外に看護師ややむを得ず感染者エリアに入らざるを得ない職員は、その都度完全に防護衣を身に纏い、N95のマスクをつけ、フェイスシールドをつけ、キャップを被り、使い捨て手袋をはめた出立ちで動かねばならず、汗だくになっていた。
 私はといえば、自ら陽性で、エリア内で接する人全て陽性の方ばかりなので、24時間いつものユニフォームスタイル。咳がひどかったのでマスクだけはしていた。隔離解除後に頑張ってくれた職員に笑ってもらうために、実はマスクの下で、最後の日まで、ヒゲを伸ばし続けることに決めていた。
 使い捨てタオルやデオドラントシートで頭から足までほぼ毎朝"清拭"した。拭くだけのドライシャンプーみたいなものもあり、なかなか快適なサバイバル生活だった。

 Eさんは、透析を週3日定期的に受けなければならない穏やかな女性。やはり認知症が重く、短期記憶障害が顕著で、「ちょっとそこで待っててください」というと「はい」と、良い返事が返ってくるものの、振り返るとそこにはいない、それが普段から当たり前のEさん。
 彼女も居室が替わり、表札を取り替えた(Aさんも表札をつけかえて、その表札が自分の名前であることを都度確かめて少し安心してくれた)が、なかなか認識できないままだった。Eさんはいつものように四六時中「今日、透析?」と訊ねて来て、「今日はないよ」と説明したしばらくあとに、部屋から透析の準備を整えて出てくるという、この半ば日課のような行動に加えて、「私の寝るところある?」というおそらく恐怖にも似た心情に苛まれていたであろう言葉が度々発せられた。
 また彼女には夜は早く寝たがるが、早く寝るとすぐさまセンサーマットが鳴動し、着替えたり、靴を履いたり脱いだり、透析の準備などを始めてしまう習慣があった。故に可愛そうな気もするが、見たくもないであろうテレビを無理やり見てもらったり、したくもないであろうタオルをたたんでもらうなど、20時頃もしくはそれ以降までなんとか起きていてもらう工夫をするのが夜勤者の毎晩のつとめだった。
 さて、そんなEさんである。Eさんの隔離中のケアの課題のひとつは、共有スペースにテレビもなく、作業する材料もない隔離空間でどうやって起きていてもらおうかと思案しなければならないことだった。
 お互いマスク越しに派手な咳込みをしあいながら話をする中で、「昔、映画はよく観に行った」という話を聴くことができた。それならば、とスマホで映画を観ることにした。小さい画面ながら画質がいいので、思いの外、功を奏した。その日から毎晩上映会を開催することになり、若かりし吉永小百合や橋幸夫らの助けを得て、彼女は毎晩朝まで良眠だった。作戦成
功。

 Fさんは、もともと寝るのが大好き?な女性。もともとシルバーカーを押して歩いて食堂まで来て、食事やおやつをいつもペロリと平らげては、部屋に戻って横になるか、食堂のテーブルに突っ伏して寝るか、そんな生活ぶり。かなり立派な体型をしており、耳元で大声で話さないと通じない難聴がある。
 彼女は自身の感染状況を知ってか知らずか、まったくベッドから動くことがなくなった。機能低下が進んだわけではなく、自分の意思で。パジャマも着替えず義歯もはめず、昼夜を問わずポータブルトイレで用を足すようになり、気づけばポータブルトイレのバケツ内に排泄物とペーパーが山のように積み重なるような始末になった。隔離前は夜間のみポータブルトイレを使用していたが、思い切ってポータブルトイレを終日居室から撤収した。ほんの少しでも動いてもらいたかった。
 昼夜トイレまで動く作戦はうまくいったが、それでも隔離解除されるまで、まさに「食っちゃ寝る」生活に専念し、おそらくベッドから離れ体を起こしていた時間は一日1時間半くらいではなかったか。
 隔離生活の半ばあたりから「社会復帰のためのリハビリ体操」と称して、ラジオ体操などを始めてみたが、彼女はまったく参加しなかった。こちらは完敗だった。

 Gさんは、感染者の中では唯一認知症の診断が出ていない年相応の心身機能の低下がみられる程度の女性。普段から食事と体操以外は居室で過ごすことが多かったため、居室を替わることがなかったこともあり、自分の部屋に意識的に引きこもる生活を難なく敢行した。とくに問題はなかったが、体調が改善すると「寝てばかりいるから、私はコロナより、腰が痛くなって動けなくなりそう」としきりに話すようになったため、毎日午後2時半あたりに始めた感染者による感染者のための「社会復帰体操」に誘うと、「腰が…」とにわかにアピールしつつも毎回必ず参加した。
 
 独りで24時間介護。実際には複数の職員が私を気遣って防護衣を身に着け手伝ってくれたこともあるが、とにかく感染させたくなかったうえに、彼らも休みなく働いていたので、感染者エリアに入ることは断った。24時間介護といっても、まったく寝られなかったわけでも、寝なかったわけでもない。それが結果10日以上続いた。ビニルハウスの向こうにいる職員には頼らないと決めたが、途中から腰が弱音を吐き始めた。
 毎日のように緩い便が続いたEさん。一日何回も洗浄し、パットやおむつを不自然な姿勢で交換した(私が不器用なため)。
 尿まみれにさせてしまったBさんの連日のトイレ介助とベッド上での慣れない更衣介助。
 AさんやDさんはじめ、使用後の汚れたトイレの掃除や消毒。夜間トイレに行かなくなったCさんの連日のベッド上でのパット交換…。
 介護職員からすれば大したことではないかもしれないが、スキルのない私は、日々重くなる腰を持ち上げるたびに、あらためて仲間たちに敬意を感じるばかりだった。
 動けなくなるほど、腰にダメージを受けたわけではなかったが、少し動くと体が沈むような重みを感じ、狭いソファに、老いた体を横たえることが終盤戦は増えてしまった。

 そして、一方で、私にとってのこの隔離生活に潤いを与えてくれたのが、小柄で細身のHさん。いつもニコニコして笑顔を絶やさないホームのアイドル的存在。やはり認知症が重く、コミュニケーションが取りづらく、オウム返しだったり、何でもイエスだったりノーだったり。気づいたら隣の方の食事に手を伸ばしているし、お茶にカーテンを浸しているし、靴や靴下を脱いでテーブルに飾っていたりする個性派のおばあちゃん。
 彼女も2階フロアから3階の感染者エリアに移動した上に、8人目の感染者をエリアに迎えたときに、部屋の準備ができず、苦肉の策として、他の感染者と相部屋になってもらうというまったく不本意な決断に振り回される結果となった。しかも、ベッドは入れず、床にマットレスを敷いて休んでいただくことになった。
 そんな不遇な目に遭いながらもなんてこともないような笑顔を振りまくHさん。それだけでも心打たれるものがあるが、しばらく一緒にいて感じたことがあった。
 Hさん、実はかなり頑固で意思が強い人ではなかろうか。それを感じた隔離中のエピソードが2つある。
 ひとつは、食事の介助の際、毎回味の感想を聞くようにしていたが、私が「これは?」と言いながらスプーンで口に運ぶと「美味しい」「不味い」とたいてい評価が下されていたし、さらに確信したのは、一日「不味い」と言い続けていたHさんが、私が差し入れに職員からもらったカップケーキを口に含んだとたん「美味しい」と笑ったことだ。
  もうひとつは、トイレ誘導して座ってもらい、しばらくしてから「もういいですか」と声をかけると「いいよ」という反応をしてくれるが、「まだ」という時があり、「もう少し座ってますか」と訊ねると「座ってる」という。しばらく外してから覗きにいくと、しっかり便が出ている。そんなことが2回あったのだ。ちゃんと意思を伝えてくれている。
 そんなHさんが笑顔以外に僕に潤いを与えてくれるのは夜。Hさんは、円背があり、同じ姿勢のままずっと寝てしまうので体位変換をマットレスの上で行わなければならなかった。いわゆるお姫様抱っこ状態で車いすからマットレスに横になってもらうのも、マットレスから車いすに座ってもらうのも、いくら小柄とはいえ、腰にはこたえる介護には違いなかったが、それを癒やしてくれたのは他ならぬHさんだった。
 体位変換の時、壁側を向いて寝ているHさんの横に両膝をついて座り、両手でHさんの体の向きを変えながら寄せると、円背でくの字の小さな体が、ちょこんと私の膝の上に乗るかたちになる。この瞬間、Hさんがとても愛おしく感じ、なにもかもすべてリセットされる。Hさんはこの時でさえ、迷惑そうな素振りを見せず、目を閉じたまま、笑みを湛えている。しばらく抱きしめていたいと思った。

 解禁予定とされていた日は祝日だった。保健センターからの「解除」通知連絡はなかなか来ず、昼食を片付け、社会復帰体操も終え、夕食も済ませて、「祝日だから、連絡は来ない」と、もう一泊することを覚悟したころに、それは届いた。
 その一報を待ちわびていた仲間たちが、勤務時間は過ぎていたが、休みなく働いてきて、いまさら時間外を気にするなんて意味ないと言わんばかりに、組み立てたときより早い作業でビニルハウスを撤去し、消毒をし、掃除をし、入居者の引っ越しを完了させてしまった。あっという間、だった。誰が音頭をとったわけでも、陣頭指揮したわけでもなく、自然に体が動いていた。   
 とりあえず終わった。

 自分の居室に戻ったAさんやCさん、そしてEさんはすぐに馴染みのロケーションに安心して穏やかな表情を取り戻した。
 シフトが元の軌道に戻ったのは、さらに一週間ほど要したが、とにかく平穏で笑い声の絶えない、いつものホームを取り戻した。
 
 あの隔離生活最後の日、疲れているのか、これでよかったのか、何か職員やケアハウスに何かを記すことはできたのか、明日はどうすればいいのか。すべてがクリーンゾーンに戻ったときは、何もわからなかったが、ただ仲間への感謝の気持ちと早く休ませてあげたい気持ちだけが頭の中に浮かんで、シフト表を見なきゃ、とぼんやり考えていた。
 お互いの労を労いながら、「こんなになっちゃいました」とマスクを下げてみたが、笑っていいのか憐れむべきかわからなかった様子で、私史上初の髭面は、まったくウケなかった。
 終わった。

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