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阿部正弘と関藤藤陰 令和6年第6回定例会個人質問より

令和6年第6回定例会個人質問 終わりました。
個別具体的な内容は正確を期すため、後日改めて文字起こし原稿を確認後、お伝えいたします。

個人質問最後にお伝えした阿部正弘と、関藤藤陰
ご存知ない方もたくさんいらっしゃるようでしたので、読み原稿を文字原稿用に少し改変してUPいたします。

幕末のバランス型リーダー阿部正弘もカッコいいけど、阿部を支えた関藤藤陰、めっちゃ渋いんだよ。
しびれる。

2022年12月 チームラボ福山城 光の祭 より

無い袖はふれない、と市長おっしゃいますが、
市民にとって本当に必要な袖であれば、つくる。
そのために「稼ぐ」。

それは市長だからできること。
力が試されるところです。

幕末のバランス型リーダーとして有名な
福山藩藩主 阿部正弘は、将軍を支える老中主座、
江戸幕府における最高職として、
黒船がやってきたときに身分を問わずにパブリックコメントを募ったこと、能力に応じて人材育成や人材登用を行ったことでも有名です。

その阿部正弘の頭脳と耳目を代行する働きをしていたのが、
備中国小田県吉浜村、今の笠岡市吉浜に生まれた
関藤藤陰(せきとうとういん)。

藤陰は阿部正弘の老中就任に伴い江戸に呼び出され、
正弘を補佐する側用人として黒船来航の時は現地視察を行い、黒船の船内も調査したと言われています。

残念ながら正弘は39歳の時、若くして亡くなってしまうのですが、藤陰はその後は福山に戻り、幕末動乱期の福山藩を支えており、中でも明治元年、長州軍福山城攻囲戦においては、和平交渉を成立させ、福山藩城下を戦火から救いました。

これは、後の江戸城無血開城の手本となっていると言われています。

このように幕末、歴史の大きな転換点の中心に、
実は笠岡出身の方がいらっしゃった。

どんな難局も、知識と知恵と経験と、
ビジョンある志と、巧みで丁寧な交渉で
のりきることができます。

そのお手本となる先人が、笠岡にはいます。

笠岡市政における市長の改革はまだまだ始まったばかりですが、やはり大切になってくるのは、

市民への情報公開、対話の姿勢、
そして職員の人材育成、人材登用です。

黒船が来た時、安部正弘が激動の時代が来ることを予測、広く意見を募り、また新しい時代を乗り切るための人材育成の場として藩校「誠之館」を創設。藤陰はその「誠之館」創立をしています。

このたびの財政健全化プランにおいては、
阿部正弘、そして関藤藤陰のように、
市民の声にしっかりと耳を傾け、丁寧な対話を行っていただきたい。

そして笠岡市の職員、特に新人や中堅の職員をしっかり育てる、お一人お一人の能力が活かされるようなシステムづくりを、さらに意識してやっていただきたい。

#阿部正弘 #関藤藤陰  
#黒船来航  #江戸城無血開城のお手本
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#笠岡市議会議員
#真鍋陽子 #まなべ陽子

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