消費という娯楽は快楽である
私は快楽が好きである。
「いま・ここ・わたしたち」を離れた会話ないしそれが可能な相手と行うことは大概快楽の範疇に入る。
先日、仕事上の知り合いが「会話で快楽を得る」ということに興味があるということで話題を聞かれたのだが、内容としてはこのnoteのようなことを話している。
大事なことはお互いの頭の中に相手を招きあうような「いま・ここ・わたしたち」を離れた会話であることである。
さて消費とは、交換可能性のために情報をハンドル化することであると私は考えている。
情報のハンドル化とは、カテゴライズや数値化である。それは判断への寄与へ特化した単純化である。ハンドル化された情報を、ラベリングした自らの欲望に照らし合わせて最適解を求めるが如く消費を行うことは、とても楽しい。これもまた快楽である。
体感としては、会話である快楽は脳の官能であり、消費の快楽は腰の快楽である。
最近、数年ぶりに小説を読んでいる。
最初は小説という文体を読むことが非常に難しかったので、伊藤計劃や小川洋子など染み込んでいる文字を指でなぞった。
少しずつではあるが、初めて手に取った小説も読めるようになったので、目を通りやすい文章を書く方が勧める小説を読み始めた。
私は小説を事象として読むことより、文章の香りを楽しんだり、様々な枠組みの中に位置づけることで楽しみを得ることが多い。前者は性癖であり、後者はスキル行使的な楽しみである。
その中で「彼女は頭が悪いから(姫野カオルコ)」「悪意(増田忠則)」「イノセント・デイズ(早見和真)」をほぼ同時期に、事象として読んだ。「彼女は頭が悪いから」で神立美咲は柔らかな心を踏みにじられ、「悪意」で主人公たちは軽んじ軽んじられ、「イノセント・デイズ」で田中幸乃は殴られ続ける。小説の中で、神立美咲も斉木らも田中幸乃も、皆、表層にもなっていない断片のみで、見知らぬ他人に語られる。それは人格のコンテンツ化、そしてその消費である。
人格というものはそれであるがゆえ尊重されるべきとするのはカントの実践哲学でも述べられているが、私はこの文言に同意している。ただ意味合い的には、人格が神と等しいからではなく、相互保身的な意味でお互いを消費すべきではないというニュアンスで私は用いている。
もう一度述べるが「彼女は頭が悪いから」「悪意」「イノセント・デイズ」では人格の消費が描かれている。それぞれの結末は異なれど、人格の消費を断罪したことに私は安堵した。
翻って自らである。他者をコンテンツ化すること、これは下世話と言われようが快楽に分類される。その際に他者と自らの間に尊厳の交流はない。他者のコンテンツ化と消費は何もSNSやマスメディアの特権ではない。所謂、身内ノリであったり、業界あるあるもその範疇だと考えている。私がそれをしていないとは口が裂けても言えないし、自らがコンテンツ化されているからといって他者を消費してない理由にはならない。そう思ったとき、さて、隣にいるだけのただの知人と何を話すかは随分難しい問題となった。