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人前で泣けない私が怖れているもの

私は2月から、CTIジャパンのCo-Active®︎コーチ・トレーニングプログラムの上級コースに行く。つまり、Co-Active®︎コーチとして、プロフェッショナルの資格(CPCC)を目指すということだ。

上級コースを経て目指すCPCCは、講義に参加して試験に合格すれば自動的に資格がもらえる(敢えて "もらえる" と表現)ようなものではない。

厳しい道のりになるからこそ、このnoteは、上級コースで向き合う自分のために、ジャーナリングとして書いている。


私は、泣けない。

誰かの胸でわんわん泣くことなど、38年生きてきて、ほとんどなかった。2人の娘の母親になった今は、なおさら泣くことができない。
声を出して大泣きすることなんて、恥ずかしいし、できない。

だけど、そんな私は、昨年夏のCo-Active®︎コーチ・トレーニングの応用コースで、毎回泣いた。最終回は、約25人が輪になっている大人の前でわんわん泣きじゃくった。

泣けないわけじゃない。映画やドラマで感動の涙は流せるのに、どうやら自分の感情は、消してしまう自分がいるみたいだ。


私は、ひとりだ。

学生時代、ある日突然友達から仲間外れにされたり、仲の良い友人に口を聞いてもらえなくなったりしたことがあった。3人で帰っているのに、2人で会話が続く、誰とも口を聞かない帰り道。耐えるようにして、気づかないふりをして平然として歩いたあの頃の夕焼けは、今も覚えている。

中学時代の部活動で、2人組で練習するシーン。自分から誘わなければ、余ることもしばしばあった。誘っても「〇〇ちゃんと今日はもう約束してたから、ごめんね」と断られる。悲しかった。約束って何?いつなら約束してないの?チームの人数が奇数であることが嫌だった。「じゃあ明日の分約束しよう!」なんて言えるはずもない。誰か私を誘ってくれないかな。そんなことあるわけないか。そう思ってた。

臆病で内向的MAXだった学生時代は、辛く悲しいことがあっても、一人になったときに(むしろ意図的にそうして)、ドラマに出ている女優さんやアニメの主人公になりきり、そっと涙を流したものだ。自転車での帰り道、布団の中。駅の雑踏。「どうせ私はひとり」などと、内心格好つけて、自分に言い聞かせるように強くあろうとした。

けど本当は自分のことをわかってもらいたい。相手のことをもっと知りたい。本音で話せる、わかりあえる人がいたらいいのに。

当時の私は、すべての原因が「何も魅力がない自分」にある、と自分を責めていた。本当は大事にしたいはずなのに、自分のことが、好きになれずに生きていた。


私は、強い。

強い私は、想定外のことが起きても、泣けない。

頭で理解しようとして、物分かりよく振る舞える。動じない。
自分にも責任があったんじゃないか、何かできたんじゃないか。そう思う。

ちゃんとした「大人」でいるために身についた能力でもあるが、不思議なほどに、感情的になることを自分自身が許さない。

感情を味わうよりも、事柄に目を向け、そこにエネルギーを費やすことで、そんな自分に気づかないふりをしてきた。

泣けない自分を、冷たい人だなと、自分で思うことはある。
でもそれは「強いから」だと思ってきた。

自分の人生、自分でどうにかしないといけない。
自分は人より努力しないと人並みになれない。そう思って強く、強くあろうとしてきた。人と違う道をいくことで、比較もされたくなかった。


私は、怖がりだ。

強い私は、人からの好意・厚意を素直に受け取れない。

なぜか。
どうやら受け取るのが怖い。信じることができない。失うことはもっと怖い。

本当は嬉しいはずなのに。

どう喜びを伝えたらいいかわからないから?
相手に褒められても、「私なんか」と思ってしまう自分がいるから?
幻滅されたくない。

「私がすごいんじゃない。あなたが素晴らしいんだよ」
「気持ちは嬉しいけど、あなたが思うような人じゃないと思う」

いつでもそう言って、私の存在をスッと消してしまう自分がいる。

感情を表現するにも、誰かの許可がほしい。
いいんだよ、本当だよ、嘘じゃないよって、絶対的な言葉が欲しい。

ああそうか。
私は、感情を表現することが怖いんだ。

いつでも感情を表現する「理由」を探している。
その理由を、相手に求めている。
その理由を表現することを、許可してもらおうとしている。


私は、自由でありたい。

4年前、私は会社員をやめて個人事業主になった。
フリーランスになった。

  • 転職活動で、最終面接を経てお見送りになったから

  • コロナ禍で、未来の見えない前職に戻りたくなかったから

  • 3歳と1歳の子育て中で、時間に制限があるから

  • 夫に背中を押されたから

どれも私にとっての「理由」だった。

でも今は…、違う気がする。

そうか。

本当は、私は「フリーランスになること」を望んでた。

誰のためでもない。
ただ自由に、自分の可能性に挑戦してみたかった。

でも、そんな無責任なこと言えない。
だって、成功するかわからない。手段もない。ひとりで仕事ができるの?わからない。だってやったことないもん。

そんな自分を否定する声が、潜在的な自分の想いを隠していた。
気づいているはずなのに見ないようにして、誰かに納得してもらえる理由を掲げてた。

けど私は、再び思っている。

「もっと自由に、みたことのない私で、自分の可能性に挑戦してみたい」。


「自分自身にNCRWを」

先日、大切なコーチ仲間であり友人が、かけてくれた言葉だ。
実際には、メッセンジャーのやりとりだった。

なぜだかわからないけど、この言葉を目にした瞬間に、涙がこぼれた。

あることに関する質問をしただけだったはずが、私のポロッと吐いた弱音に対して、好奇心を向けてくれ、こう返してくれたのだ。
彼は尊敬するCo-Active®︎コーチのうちの1人である。

NCRWとは、Co-Active®︎のもつ「人間観」を表す言葉。

人はもともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である。

コーチング・バイブル 第4版 p.31

英語の原文「People are Naturally Creative,Resourceful and Whole.」の頭文字をとって、NCRW。上級コースで私が探究したい信念だ。

もしこの信念を持たないとすれば、「人は壊れやすく、頼りない存在である」と考えていることになるでしょう。

コーチング・バイブル 第4版 p.31

なんてこった。
私は自分自身を「頼りない」と潜在的に思い続けていたのだ。

余談だが、コーチ界隈で話題に出るメンタルモデルでは「価値を発揮しなければ自分に価値がない」と思い込む「価値なしタイプ」だと自覚している。あと「誰とも分かり合えない」と思い込む「ひとりぼっちタイプ」も強いだろう。

私は、上級コースに行くことがどこかで怖かった。
ちゃんとしなければいけない、うまくやろう。達成感を味わいたい。頑張れば報われる。だから、そのために、準備をしっかりしよう、と。

でも、本当に必要な「準備」は、行動ではなく、自分自身の感情に向き合うことだったのだ。

怖い気持ちと向き合う。見たくない感情と向き合う。
さらけ出したくない自分を受け入れる。

でも、こんなこと、簡単にできるわけない。
意識するだけでできたら、コーチはこの世にはいらないのだ。

そう思って、noteに書いた。
そして来週のマイコーチとのセッションでも、このテーマを取り扱いたい。

一人では探究しきれないし怖くて扱えないことも、コーチがいるから、できるのだ。コーチは挑戦をずっとそばで応援し、励まし続けてくれる存在だ。

どんなに険しい山だって、大丈夫と言えるコーチでありたい

ネチネチと、こんな内面を3,000文字も書いて語るなんて、恥ずかしい。格好悪いと思われるかもしれない。
でも誰のためでもない、自分のためだけに書いている。

自分自身にNCRWを」。

私ならできるよ!強がりでも、怖がりでも、いいよ。
だけど、今のあなたはひとりじゃないよ。そう思って、私のために、書く。

まずは、私自身が「許可を出す」のだ。


前述の友人はこんな言葉もかけてくれた。

けどさ、もうまにゃは知ってもいるよね。家族や友人、大切の人たちのつながりや温もりを。

その温かい繋がりと同じものを目の前に現れたクライアントさんと築こうとしてみるってチャレンジをしてみるのはどうかな?

もうすでにまにゃはそれができる人なんだよって認知しています。

頑固で強がりで人前で弱音を吐けない私の心が溶けた瞬間

クライアントと「今この瞬間から創る」関係性だからこそ、できる。

とっても怖いけど、私にはできる。
クライアントになりたいと言ってくれた人と、いつもそばにいてくれる人と、どこかで見守ってくれているnoteを読んでくれたあなたと、そして何より私自身を心から信じて、思いきり、やってみよう。派手に転んでみよう。

そうすれば、見たことのない自分に出会える。
本当に出会いたい未来に出会える。
コーチとして、幸せにできる人が増える。

そう信じている。


最後に

もし、このnoteを読んで、私と一緒に「自分にとってのNCRWを探究してみたい」「自分自身の意識に変化を起こしたい」「プロセスを共に味わいたい」そして「まにゃを近くで支えたい」と、コーチングのクライアントになってくれる方がいたら、ぜひお声がけください。

上記ホームページの「お問い合わせ」からお願いいたします。

ここまで読んでくれたあなたの1日が、豊かでありますように。

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