風呂キャン、その先にあるもの
普通の人は毎日風呂に入るらしい。
いつから、私にとってそれが普通じゃなくなったのか。いつから、少しずつ普通に戻り始めたのか。
私が鬱の極大値にいた大学一年生、いわゆる風呂キャン(風呂キャンセル界隈:面倒で、何日間も入浴を避けている人たちの俗称)の一員であった。べったり皮脂がまとわりついた髪は、簡単にブラシが通らないぐらい縦横無尽に絡み合っていた。描写していて不衛生極まりないと感じることが非風呂キャンであることの何よりもの証明だが、当時はそれが自分の普通だった。
当時付き合っていた人に、拾ったばかりの野良猫———と言えばずいぶん結構聞こえが良くなるけど———みたいに風呂場にぶち込まれて、何日かぶりに髪を洗うとき、いくら流しても髪の毛がずるずる抜けて、排水溝に詰まっているのを見る時間がとても不快だった。
ドライヤーがめんどくさいというのは、言わずもがなであろう。あるいは、ドライヤーを誤って風呂に落とした親子が感電死した、というどこかで聞いた話がやたら印象に残っているために、潜在的に恐怖の対象になっているのかもしれない(同じような理由で、私はキノコが食べられない。毒キノコかもしれないから・・・)しかし、本当に感電死するのか調べてみると、どうやら都市伝説とかフィクションの類であるようだ。日本のドライヤーの電圧はせいぜい100Vで、湯船に落としてもビリビリする程度なのだとか。
幼い頃はむしろ風呂が好きだったように思う。水に潜って目を開けて、水面を下から見るのが恒例だった。上から見下ろしても何も感じないのに、下から見上げると途端に「あちら」と「こちら」の感覚が生まれる。境界面の先には何も見えないのに、目が痛くなっても、息が続くまではそうしていた。
私が風呂キャンを克服したきっかけのひとつが「旅の宿」という入浴剤である。草津、箱根、十和田など、日本各地の温泉を自宅の湯船で楽しめるという代物だ。アソートになっているところが優秀で、飽き性の自分にはこの上なくマッチしている。
とはいえ、一度失った「普通のひとの普通」の感覚を取り戻すのは極めて難しい。私は今でも風呂に入るための不断の努力が必要だから。私にとっての入浴とは、日常生活で乱雑に扱われてもみくちゃになった身体に「普通のひとの普通」を染み込ませ、しわを伸ばすための行為である。「風呂は命の洗濯」だとエヴァのミサトさんは言っていた。風呂キャンの時はちっ、うるせーなとか思ってたけど、今ならその意味が分かる。