【短編】深夜の洗濯物と明日のチョコレート

夜の22時を過ぎると夫の携帯が頻繁に鳴りだす。
リンロン、リンロン、と軽快な音に合わせて送られてくるメッセージは
きっと「あの子」からだと思う。

「タバコ、買いに行ってくるわ」

夫は携帯を持ってそそくさと退場する。
静かになった部屋でわたしは考える。

どうして腹も立たないのだろう。

夫のことが大好きで結婚した。
2つ年上で大学の先輩で
付き合って2年で籍を入れた。
すぐに赤ちゃんが出来た。
女の子だった。
その次の年にまた赤ちゃんが来て
今度は男の子を産んだ。

長男と長女。大好きな夫。それから、結婚した時から育ててる大きなパキラ。
狭い賃貸住宅だけど海の見える
景色のいい街に住んでいて
私は近くのお蕎麦屋さんで働いている。

夫には感謝しかない。
家計簿に頭を悩ませることはあっても
貧困に悩むことはない。
私は結婚する前と同じワンピースをもう何年も着ているけれど
おおむね「足りないもの」はない。
もともと人間関係が不得意で友達も少ない私は
特に行きたいところや欲しいものもない。

充分に足りている。
足りすぎてるのだ。

そんなわけである日
夫が他の女の子と手を繋いで歩いているところを見ても
なにも思わなかった。

そうかあ。

と思った。

子供が3歳と2歳の頃だった。
あるあるだよな。
と思った。

子育てで奥さんが大変でイライラしてて
よそに癒しが欲しくなったんだよね。

怒るどころか妙に納得してしまい
それでそのまま家に帰って荷物を置いて
保育園にお迎えに行った。

残業する、とラインが入って
頑張ってね、と返した。
夫は深夜2時に帰ってきた。
アルコールと石鹸の臭いがして
スーツをクリーニングに出した。

それでそのまま
5年が過ぎている。


夫は定期的に「残業」する。
夜コンビニに出ると「部長」から電話がかかってきて
そのまま1時間ぐらい外で話している。

「ごめんね」
と言ってアイスクリームを買ってくる。
私は「部長」と長電話していることよりも
「ごめんね」とアイスクリームを買ってくるその姿が
なんとなく滑稽で憎めない。
それで

「アイスクリームありがとう」

と言ってそのまま何も言わない。

私は足りすぎている。
いつもそう思っている。


私には「家族」というものが
ほとんど存在しない。
家庭崩壊した家に育って
お父さんとお母さんが「ちゃんといる」と言うことが
よくわからないまま大人になった。

ずっと家族が欲しかった。
自分の家族。
実家、という意味じゃなくて
自分で自分の家族が作りたかった。
「家庭」が、欲しかった。


ずっと欲しかったものを手に入れたのだ。
夫の浮気くらい、なんなのだろう。
黙っているだけで、たぶんきっと、思っているよりもたくさんの人が
こうやって私がテレビを見てアイスクリームを食べているこの瞬間にも
自分のパートナー以外の人と
手を繋いだりそれ以上のことをしたり
そんなことが起きているんじゃないかと
そんな風に思う。


夫のことを諦めているわけではなくて
まだちゃんと愛しているし
昔みたいにロマンチックなことは何もないけれど
それで良いとも思っている。

「あんた、なかなかにおかしなヤツよね」

親友にこの話をしたら笑っていた。

「なんていうか、わりとクレイジーだ」

親友曰く
「それでちゃんと納得していて自分も幸せなのが変なのよ。」
らしい。

それはまあ、そうかもしれない。


「だけどわたし、大前提として不倫はダメだと思うよ。されたら怒って良いと思う」

親友にそう言い返したら

「当たり前だよ馬鹿タレが」

と言われた。

「あんたはなんで怒んないの。理解できん。私だったらしばき倒したのち、一生許さない。」

それは、そうだ。
それは、普通の反応だと思う。

「なんで、腹が立たないんだろうなあ」

私にも分からなくてそう呟いたら、親友は言った。

「あんた、人間に興味がないから」

なんていうか、昔からそうだよね。
人類に興味ないよねあんたは。

「だけど、愛がないって言うのとも違うんだよなあ。愛はある。あるんだけどなあ」

変なやつよねえ、あんた。

よくわからないまま、それでこの話はおしまいになった。


愛、なあ。

帰り道で考えた。

愛は、あるんか。

有名なCMの女将さんが頭の中に出てきて
なんか笑ってしまった。

愛があるから、許してるのかもしれないな。
人類に興味が持てない私は
確かに夫のこと以外は好きになれそうもない。
だから、浮気をしても腹が立たない。大好きだから。

でも、その逆かもしれない。
そもそも人類に興味がなくて
夫に対しても愛がないから
浮気しても何とも思わなくて、許してるのかもしれない。

「アイは、あるんか」

呟いてみると「アイ」という言葉が
知っているようで知らないもののようで
宙にポカンと浮いてしまったような
そんな気がした。


その夜は「部長」から電話がかかって来なくて
夫と2人でテレビを見ていた。
ふとカレンダーに目をやると
明日の日付に「借りてたジャージ持って行くこと」と書いてあった。

「あーーー!!!!」

私は自分でもびっくりするくらい大きな声を出して、隣でくつろいでいた夫もびっくりして

「ど、どしたの!!」

と大きな声を出した。

「ジャージ!!忘れてたよ!!明日持っていかないと!!」

数日前、体育の授業でみる影もないくらいドロドロに汚れた長男が
保健室からジャージを借りて帰ってきた

「水曜日までに洗って乾かして」と言っていたのを
わかったわかったと言って忘れないようにメモったのは良いものの
メモっただけでそのまま忘れていた。
その後数日雨が続いて洗濯物は溜まりきっていて
もちろんジャージも洗えていない。

「どどど!!どうしよう」

一日くらい、待ってもらったら。

夫は何てことはないようにそう言うけれど
私は気が気でなかった。

「いついつまでに」

などと言われると
もう脅迫観念的に「絶対守らなければ」と思ってしまう。
昔からそうだ。
宿題や仕事の提出締め切りを、絶対破れない。
待ち合わせの時間には、絶対遅れない。
借りたものは、ちゃんと返さなければ。

「私、コインランドリー行ってくるよ!!」

バタバタと洗濯物をIKEAの袋に詰めて夫にそう言った。

「今から?危ないよ、やめときなよ」

一日二日遅れても大丈夫だって。

そう言う夫に大丈夫大丈夫!!と言ってカバンの中を確認した。
財布、スマホ、鍵、コインランドリーの回数カード……。

「真面目だなあ」

やわらかい声に目を上げると夫が笑っていた。

「ほんとうに、昔から、真面目」

優しい顔をしていた。

そこに愛は、あるんや。

なぜか頭の中で女将さんがそんなことを言った。

恥ずかしくなって
「行ってきます」
と小さい声で行って家を出た。

近くのコインランドリーまで歩いた。

そこに愛は
あるんや。

なんだかくすぐったいような
変な気持ちだった。

よーしガンバロ!!
そんなことをつぶやいて
IKEAのバッグに入った洗濯物をかついで
駆け足で歩いた。

コインランドリーで洗濯物を放り込んで一息つき
雑誌を巡りながら待機していると
若い男の子が入ってきて、ワイシャツ一枚だけを洗濯し始めた。

一人暮らしかなあ。

そんな風に思っていると
男の子はウトウト眠ってしまった。

疲れてるんだろなあ。
一人暮らしは、大変だ。
そう思うと男の子に布団でもかけてあげたいような気持ちになった。
母心だな。
そんな風に思って笑ってしまう。

私は、夫のワイシャツを洗って干して
アイロンをかけて
取れかけたボタンを付けて
またすぐに着れるようにハンガーにかけてあげる。

夫は、そのワイシャツを着て外に働きに行って
上司に嫌味を言われたり
取引先に頭を下げたりして
そして少しだけ浮気心なことをして
だけど私のところにちゃんと帰ってくる。

私は、それを手放したくないのだ。
それが、全てなのだ。

「それが愛なんや」

ピー
と言う音に気がつくと
男の子の洗濯機が止まっていた。

そっか。ワイシャツ一枚だから、早いのね。

起こしてあげようと思って声をかけると
男の子は起き上がって、なんだかびっくりしたような顔をした。
そして慌ててシャツを掴んで、自動ドアまで走っていった。

ガツン!!
と音がして振り返ると男の子がうずくまっていた。

頭をどこかにぶつけたらしい。

「大丈夫?」

びっくりして駆け寄ると

すみません……。

と小さくつぶやいて
男の子は泣いていた。

私はびっくりした。
失恋でもしたのかなと思った。
男の子はゴニョゴニョと何かつぶやいて
うずくまっていた。


私はポケットにチョコレートが入っているのを思い出して
男の子に差し出した。

「いいことあるよ」

私があした食べようと思って取っておいたチョコレートだった。

男の子は少し笑って
お礼を言って去って行った。

再びピーという音が鳴って
我が家の洗濯物が完了した。

IKEAの袋に詰め込んで背負って
わたしはまた歩き出す。


愛は
愛は
それぞれいろんな形があって
それはきっと誰にも
どんなに近しい人にだって
理解できないような
そんな
繊細で美しいものなのだろう。


空に月がきれいだった。
あしたもあさっても
ずっと
いいことあるよ。


少し寒い四月の空の下を
口笛を吹いて歩いた。

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