京都での講演のあと、愛知県の碧南蒸留所と清洲桜酒造の2ヵ所を訪れる
コニサーのWPの問題作り、中国版検定テキスト、コニサー教本のスコッチ編の製作、校正作業と、『コニサー俱楽部』のマスターオブウイスキーへのインタビュー、そしてガロアの原稿におわれていた。26日の木曜は午前中の新幹線で京都へ。関西醸友会から講演を頼まれていたもので、午後2時45分から50分間ほど、ウイスキーがなぜ世界の蒸留酒になり得たのか、今のウイスキーの現状についてお話をした。日本酒の蔵人や、サプライヤー関係の人たちがメンバーで、今回は110名ほどが参加していた。
それが終わって、再び新幹線で名古屋までもどり、その日は名古屋泊り。翌27日の金曜は朝9時すぎのJRと、途中名鉄に乗り換え、10時すぎに碧南駅に。相生ユニビオの碧南蒸留所を取材するためで、駅まで同社のYさんに迎えにきてもらう。蒸留所は駅からすぐのところにあり、話を聞いたあと、さっそくウイスキー造りの現場を見せてもらう。
碧南のワンバッチは325kgと極小サイズ。仕込みも清酒が終わってからの6月以降で、年間40~50ほどの仕込みしかできないという。碧南のウイスキー造りは1949年まで遡ることができるが、相次ぐ台風、特に1959年に襲った伊勢湾台風によって壊滅的被害を受け、断念した経緯があるという。伊勢湾台風は史上もっとも被害の大きかった台風で、当時私は5歳で、しかも佐渡の子供だったが、かすかに覚えている。列島を縦断したあと、日本海に出て、日本海側にも大きな被害をもたらしたからだ。
それはともかく、断念してから60年後の2019年、碧南では再びウイスキー造りを再開することを決め、少量ながら造っているのだ。蒸留は焼酎用のステンレス製スチルが1基で、これで2回蒸留して造っている。現在のニューポットも、そして10月に発売されるという、正真正銘のジャパニーズウイスキーのシングルモルト「一碧」も見せてもらうが、なかなかの出来である。ピートが効いて、バランスも良く、それでいてソフトでマイルド。碧南の風土をよく表現していると感じた。
結局、12時すぎまで取材をし、再び碧南駅から名鉄線を乗り継ぎ、午後2時半過ぎに今度は清須市の清洲桜酒造へ。新清州の駅までやはり迎えにきてもらって、まずは酒造のすぐそばだという清洲城に行ってもらい、その姿をカメラに収める。清洲城はもちろん、織田信長の居城で、ここから信長の天下とりが始まったといっても過言ではない。城は再建されたもので、元の城とは違うが、やはり清洲城と聞いたからには、行くしかないと思っていたのだ。
清洲桜のウイスキー造りについては技術顧問のKさんに案内されて、すべてを見て回った。Kさんは清州桜に入社して30年超、いや40年近い大ベテランだが、ウイスキー造りについては、ほとんど知らなかったという。同社は東海、愛知地方では最も大きい酒造のひとつで、清酒からワイン、リキュール、ジン、焼酎、そしてウイスキーも造っている。実際、工場はかなりの大きさだ。その中でウイスキー造りが行われているが、初蒸留は2013年11月だというから、丸10年以上となる。しかもモルトウイスキーだけでなく、グレーンウイスキーも造っていて、グレーンは3年物のシングルグレーンとして販売している。ウイ文研が主催しているTWSCにも出品され、賞も取っているのだ。
製造の詳細については次号のガロアでレポートしたいと思うが、とにかく糖化、発酵が他では見たこともない、大変ユニークな造りで、しかも使うのは清酒酵母オンリーだという。それがどういう酒質をもたらすのかは、非常に興味深い。取材のあとブレンデッド、シングルモルト、シングルグレーンの3種をテイスティングさせてもらったが、やはりこの秋に出る、シングルモルトが面白い。
清洲桜のウェアハウスは酒造の地下で、そこに樽を置いて熟成させていたという。実際見せてもらったが、巨大な地下空間で、天井高は8メートルほどもあり、独特の環境をつくり出している。ウイスキーで地下セラーというのはあまり一般的ではないが、そういえばインドのポールジョンがそうで、他にもかつてフランスのミシェル・クーヴレが、ブルゴーニュの地下セラーでウイスキーを熟成させていた。はたして、それがどういう風味の特徴を持つのかも、次のガロアでレポートしたいと思っている。
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