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ガロア入稿と嘉之助のローンチイベント、そして檀一雄さん

 このところガロア、TWSC、コニサーなどでハードなスケジュールが続いていた。ガロア巻頭のグレーン特集の原稿と校正を済ませ、さらに沖縄の泡盛紀行についてもギリギリで原稿、その校正、レイアウト変更、そしてキャプションとタイトル、リードを月・火でやっていたが、ミーティングも相変わらず日に2~3件あり、時間が足りない…。それでも16日の火曜日に、ガロアの入稿を間に合わせることができた。あとは24日の校了日まで、入稿に間に合わなかった原稿(これがけっこうある…)と、その校正が続くことになる。

 毎回思うことだが、2か月に1度、雑誌を定期的に出すというのは本当に大変な作業だ。私の場合、それに専念できればそれほど苦しまなくても済むと思うのだが、ガロアは私の仕事の量の5分の1ほどでしかない。他にウイ文研としてウイスキーフェスティバル、ウイスキーコニサー、ウイスキー検定、そしてTWSCにスクールと、やることが満載で、日々決断を迫られる案件が50~60件ある。起きてすぐの仕事は、その日の案件のファイル整理と、それを探すことで、床の上にうず高く積まれたファイルの山からそれを探すのに、下手をすると1~2時間かかることがある。

 年々、仕事は増えているが、体力・気力・そして記憶力がついていかないのだ。下手をすると昨日のことも、忘れている。さらに一日中机に座って原稿用紙のマス目を埋め、それを活字にして校正するという作業で、足・腰・肩・首・全身に痛みが走り、五体不満足だ。と、グチっている時間も惜しいほどで、次から次へと仕事がやってくる。

 ガロア入稿後の昨日は東京青山のシェアガーデンで、嘉之助の大きなイベントがあり、私はメディアを対象としたその1部で、12時過ぎから小正芳嗣さん、弟の倫久さんの小正兄弟とトークショーを行った。嘉之助のシングルモルト、日置のシングルグレーン、そしてこの2つをブレンドしたダブルディスティラリーの3種の定番商品が揃ったことの、お披露目イベントだったが、青山墓地の向かいに、そんなイベントスペースがあることを、行くまでまったく知らなかった。

 それにしても、やはり嘉之助はすごい。それぞれのモルト、グレーン、ブレンデットのコンセプトも見事のひとことで、本当の意味で小正芳嗣さんの夢が叶った瞬間だったのかもしれない。10年くらい前に、鹿児島大学で講演を頼まれ、その時初めて名刺交換をした。その後鹿児島に行ったときに、天文館の居酒屋や、彼の行きつけのバーで酒をくみ交わし、ウイスキーの話をしたことを、懐かしく思い出した。その時彼は、「ウイスキーを造りたい」と、熱く語っていた。それが、こんな形で実を結ぶことになり、私も感無量であった。

 できることなら、嘉之助蒸留所の傍に小屋を建て、毎日眼の前の吹上浜で釣りをし、夕陽を眺めていたい。時々は蒸留所でテイスティングもする。小正さんにはそう言ってあるのだが、いつか実現できるときが来るだろうか。それがもっかの私の現実逃避、いや夢である。

 夕陽で思い出したのだが昔、愛読していた檀一雄さんの本で、檀さんが晩年、ポルトガルで過ごす話がある。檀さんは毎日、そのポルトガルの港町の海岸で、大西洋に沈む夕陽を眺めていたという。そういえば、私が1995年に『モルトウイスキー大全』を書いたとき、一番最初に雑誌のインタビューに呼んでくれたのが、その檀さんの娘さんの檀ふみさんだった。1996年のたしか2月のことで、カード会員誌の『シグネチャー』の巻頭インタビューだった。

兄の檀太郎さんとは一度だけスコットランド取材で一緒したこともあり、その縁だったと思うが、檀ふみさんの才女ぶり、頭の回転の速さに本当にびっくりしたものだ。私自身、数多くのインタビューも受け、数多くのインタビューもしてきたが、今でも檀ふみさんが一番だったと思っている。

打てば響くとはまさにこのことで、ウイスキーだけでなく、その時にお互いに多くのことを話し合った。今となっては、本当に懐かしい思い出であり、そのふみさんのお父さんの檀一雄さんが毎日夕陽を眺めていた、そのポルトガルにいた頃の歳を私はとうに過ぎている。檀さんが亡くなったのは1976年で、享年63だったからだ。

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