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2回目の大学入学式に思うこと

大学の入学式に行ってきました。

と言っても、私自身の入学式ではありませんし、息子や娘の入学式に保護者として出席したわけでもなく、大学教員として、参加しました。

実際は、去年から大学には赴任していました。
去年は入学式はやったのですが、コロナの影響で「参加はできるだけ控えて欲しい」と要請されていたので、出席は見送りました。

一昨年に至っては、入学式自体行われず、去年に1,2年それぞれ時間を分けて、(2年生は1年遅れで)入学式を迎えたということになります。

さて、私の最初の大学の入学式はちょうど30年前になります。
行事が嫌いな保護者(母親)も珍しく参加したこと、日本の詩歌に関して学内の教授の講演会があったことくらいしか覚えていません。
入学式に出席して、感動したとか、期待に夢を膨らませたとか、そういうこともなかった気がします。

そもそも、国立大学の理系で華やかなところなんてなかったし、大学に入った後も、受験生時代と同様に勉強しまくっていて、サークル活動や遊びに時間を使うことがあまりなくて、学生生活をエンジョイしたとは到底言えなかったですね・・・
性格がそうなので、これと違った学生生活を送ろうと思っても、そもそもムリというものです。

ついでに大学院についても書きます。
大学院は学部とは別の大学に行きました。
内部進学であればラクだったし、私がいた学科では外部の大学院に行った学生は過去皆無で、担当教授や同級生から嫌がらせを受けました。
(私が受けた大学院は偏差値も、知名度も上だったので、「足を引っ張ってやろう」というところだったと思います)

努力して目標を達成したので、大学院入試に合格したことの感慨は深かったのですが、大学院の入学式についても、やはりあまり覚えてないですねぇ。

当時の総長は蓮見重彦先生でした。
専攻は違うものの学部生時代に何冊か著書を拝読していた(イチイチ丁寧語)ので、ワクワクしながら出席したのですが……
蓮見先生の訓辞が、全く理解できないんですよねぇ。

「●●ではなく、●●でもなく……」とひたすら否定形でお話しされるので、「要するに何なの?」と思ってしまいました。
理系にしては、文学書や思想書も読んでいたので、多少のレトリックは理解できるつもりだったんですが、完全に理解不能でした(笑)
出席した他の学生も口々に「意味不明だったなあ・・・」と言い合っていましたので、私が特別バカだったわけではないと思います(!?)。

そんなこんなで、今回の入学式ですが、教員として参加しているので、まあ当事者ではないわけです。

ただ、不安を心の片隅に抱えながら、期待に胸を膨らませている(ように見えるだけかもしれないし、実際はどうなのかよくわかりませんが……)、若者たちに対して、自分は何を与えられるんだろうか?? ということも、つい考えてしまったりしました。

自分自身に関しては、30年前に大学に入り、大学院まで出て、25年間別の世界に身を置いて、久々に大学に戻ってきたことについて、感慨深いものがありました。

僕にとっては、これまでの人生で一番居心地が良かったのは、やっぱり大学だったんですよねぇ。

小学校から高校まではいじめにあっていたし、先生からも疎まれがちだったし、規則でがんじがらめにされていたし、勉強にも興味は持てないし、自分にも自信が持てず、悲惨なものでした。

一生懸命勉強して、大学に入り、大学院も通うようになると、周りの僕を見る目も明らかに変わってきたし、大学は基本的に個人を尊重してくれる(あるいは、放置プレイにしてるだけかもしれませんが)し、良いところでした。

僕自身は「大学と大学院以外の学校は行く価値がなかった」と思っています。

会社に入ってからも色々あり、試行錯誤しながら、なんとか組織に適応してきたつもりではありましたが、心のどこかで「ここは自分のいる場所じゃないんじゃないか?」という思いがありました。

やっと人生も曲がり角を過ぎて、自分がいるべき場所に帰ってきたのかなぁ・・・という思いを抱きました。

学長や卒業生の訓辞についても、学生時代みたいに「意味不明」な7んてことはなく、心に染みるところがありましたよ。
これについては、当時の僕が未熟だったというよりは、昔の先生が今ほどプレゼンテーション力がなかったということだと思っていますが(笑)

そんなこんなで、2度目の大学入学式は終えましたが、卒業するのはまだまだ先になりそうだし、まだまだ先でいたいものです。


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