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セトリ地獄【100日間エッセイチャレンジ】

「セトリ」という言葉をよく聞かれるようになったのは、良くてここ数年のことではないかと思う。

セトリ、すなわち「セットリスト」
アーティストが歌番組やライブ、コンサートなどで披露する曲目やその順序の一覧を指すが、元々はそれらをまとめた文書のことだったようである。

だとすると、元来この用語は業界用語で、その後徐々に一般に浸透していった、ということかもしれない。

前にも書いたが、世は空前の推し活ブームである。

https://note.com/mammie0711/n/n1f56c7ea5da2

「推ししか勝たん」が広く認知され、随分市民権を得るようにもなってきたように思う。
(推し活は)オタクで陰気な変わり者が隠れてやっているもの、というイメージは大きく覆され、今では猫も杓子もと言わんばかりだ。
「にわか」やミーハー、時として新参者そのものに厳しい界隈も多いと思われるので、皆が皆この状況を喜んでいるわけではないだろうが、それでも、ここ数年の変化やそれに伴う影響は間違いなく大きいはずである。

また、近年に至っては、本来なら推される立場の人たちにも「推し」がいて、推し活に励んでいることを公表している人たちさえいる。
推しの「推し」により親近感を覚えるか、はたまた嫉妬の対象になってしまうかはその人次第であろうが、本当に時代は変化しているな、と如実に思う。

少し話が逸れかかってしまったが、私が推し活(と呼べるほどのものでもないが)を知るようになったのがここ5年ほどのこと。新参中の新参である。
ただ、その頃には既に「セトリ」という言葉は使われていたように思う。
ということは、その手の界隈において、「セトリ」は目新しい用語でも何でもなく、ごく一般的な用語に等しいということで相違ないのであろう。

ライブやコンサートが生きがいであろうファンにとって、セトリは顔であり、命そのものという解釈もでき得る。
どんなに推しに会えて嬉しくとも、セトリがイマイチだとしたら、全てが台無しになってしまう…ということにもなりかねない。

私は推し、もといファンという人種になるまで、ただ、ファンは出されたものを黙って食べるかのごとく、推しの提供するコンテンツを消費するだけの存在、のように思っているところがあった。
だが、多くの推される側の人たちは、私が想像している以上に遥かにファンを思い考えているのだということを図らずも知ることができた。

私の推し達は、一般向けのTV番組出演でさえ、色々な手段を用いてファンにしか分からないメッセージや内容をしれっと込めてきたりするくらいである。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」
とはよく言ったものだが、
「推しはひとまず推してみよ、推せるうちに推せ」
と私も声高に言っておきたい。
推してみなければ分からないこと、推すことで初めて知る世界が確実に存在しているのだ。
だからこそ、推し活の魅力を公言するひとがこんなにも増えてきたのだろう。

だから、セトリだって、自分たちの都合やエゴで決めているのではなく、時にはファンの声も取り入れつつ、悩んで悩んで悩み抜いて決めていることは想像に難くない。
いつだって、セトリは推される人達の努力の結晶だと思い、私たちは心して受け取らなければならないと思っている。
もちろん、時にはファン側の意見を表明することもひとつの形であるとは思うが…。

ところで、このエッセイチャレンジのタイトル決めも、曲目ではないものの、平たく言うならセトリの一種という見方もできよう。
それで言うなら地獄である。
私は推される側の人間ではなく、ひたすら自己満足で毎日セトリを組んでいるわけなのだが…終わりの見えないセトリ地獄は、私の中でまだまだ、淡々と続いていくのであった。

明日のタイトルは
そういうことだったのか

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