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きれいごと

阪神淡路大震災から30年。
もう‥と思うのは自分事と思えていないからだろう。生きている間に私もほぼ確実に大きな地震を経験するであろうから、自分事として受け止めなければ、と思う。まだまだ備えは不十分なまま過ごしているが。

随分と前に震災特集のドキュメンタリー番組を観た。被災した一人の老女が
「きれいごとを言っとらんと、やってられんよ」
とボソッと呟いたのが忘れられない。手を動かしながら、そっぽを向いたまま、感情をぶつけることなく諦めたように発した言葉。
当時の私は、その言葉が腑に落ちたわけではなかったが、やけに印象に残った。言葉の一字一句は上記と少し違うだろうが表情と声のトーンは今も覚えている。
「きれいごと」は希望の言葉。信じているかどうかは別にして、あえて口に出して自分を支えていく、そんなふうに受け取った。


1995年、兵庫には友人が数人いた。
新婚で社宅に入ったばかりの友人は、食器棚から食器が砕け落ちて足の踏み場もなかったらしい。結婚祝いのブランド食器も全滅だったけれど、命に別状はないからと言っていた。
別の友人は俗にいう転勤族の妻で、住んでまだ1年の神戸市の住まいも家族も無事だったが、数年後に今度はニューヨークで9.11を間近で経験した。こちらも家族そろって無事でよかった。
きっと、この2人の話は被災地では「ありふれた」経験で、もっと深刻な話はいくらでもあるのだろうが、一人一人にしたら忘れられない大きな出来事であり痛みでもあるはずだ。

周りを気づかって多くを語らず、一人一人が復興へ向けて地道に積み上げてきた30年がある。頭が下がる。
せめて、毎年想いを馳せ手を合わせることだけは忘れないでいたい。
そして、東北も熊本も能登、他にも災害級の地震や豪雨、噴火など、毎年のように多くの命と町が犠牲になっているが、自分の辛さを声高に言う余裕はきっとないのだ。
昭和の敗戦と復興の時代から変わっていないのかもしれない。むろん戦時中や戦後は心理的ケアがなかった時代、一人一人がひどく深刻な痛みを抱え続けていたことは想像にかたくない。比較ではなく共通項として、脈々と続く日本人気質は心を閉じ込めがちだと思う。

「きれいごとを言っとらんと、やってられんよ」
言葉の深さが年々解るようになってきた。
泣き言を言っている場合ではない、という気持ちはすぐ思いつくが、別の側面もあるように思えた。
きれいごとは、言霊でもあるだろう。
自身の心身を保つために必要な行為なのだと思う。身に振りかかった不幸や言いしれぬ後悔や埋まることのない悲しみばかりを口にしていては、ダークマターに飲み込まれて病んでしまうと直感的に感じるものがあるのではないだろうか。あるいは、そうやって弱っていく人を間近で見て口惜しい思いをしたのかもしれない。
笑うこと自体が薬で、免疫力を活性化させるというのだから、気の持ちようは肝となる。
それを支えるのが言葉だ。言葉は言霊なのだ。
いつかの読み聞かせで聴いた「自分の言葉は自分が一番近くで聴いているのだから、美しい言葉を使いましょう」という格言(?)を思い出した。

きれいごとは、ただ耳障りのいい言葉なわけではない。ポジティブな言葉の奥には、飲み込んだ悲しみや怒りが隠れている。
きれいごとのオブラートに包んで、人知れず流した涙を手放していく。まるで自分をあやすように、そっと。手放した隙間に光が少しだけ差し込む。繰り返し繰り返し果てしない時間をかけて、言葉を糧に日にち薬は効いていく。

頑張っている人の「きれいごと」を受け取るときは、ネガティブな想いも一緒に受け取れたらいいのに…と思う。でも、解ったようなフリをするのは最低だからずいぶんと難しい。ただの「きれいごと」とは違うんだ、ということだけは覚えておきたい。私へ備忘録。

自分の言葉に、きれいごとばっかりと自身が揶揄することもあるけれど、私は今いる時代に希望を持っているのは確かなこと。世の未来を作る一員であろうとする気概も持ち続けていたいと思う。
ポジティブな言葉が行動になり他者と繋がって大きな力に変わっていくことは、絵空事ではないと信じているから。

悲しみや弱音を否定するつもりはない。ネガティブな感情はとても繊細で、排除せずに自分で認めて味わったほうがいいと常々思っている。実際、認めたほうが囚われない感覚がある。
ただ、苦しい状況で出会った前向きな言葉に心が向いたのなら、忘れずに心に留め置いて大事な言霊にするのがいいと思った。
書も歌も私を守り作ってくれるもの。
今日だから、考えた事。
書き終わったら昨日になってしまった・・・

画像は、Keiさんにお借りしました。

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