ここ1週間、ユングに没頭してた
ユングについて書かれた書籍を読み、ユングをテーマにしたYoutube動画をたくさん見た1週間だった。
遡る1ヶ月前のこと。自作の物語をアナログのノートに書いていた。
そして、どうしても自分は文章の趣よりもメッセージ性の方を重要視する傾向にあるなと感じる。物語の臨場感を顧みず主人公の思考ばかりを書き殴り、物語ではなく哲学文のようになってしまったからだ。
主人公と自分を重ね合わせて書くが、私の人生はまだ終わっていない。だから、終わりを生み出すのは難しい。できれば、主人公には幸せになってほしいという願望とそのためにはどの収束した幸福思考を持ち合わせなければいけないのかと、果てしない哲学の沼にはまってしまうのだ。(「果てしない哲学の空を見上げる」と表現し直す。)
たまたまユングの動画を見た。それは、ユングが提唱した「シンクロニシティ」についての解説動画でとても心惹かれた。一言で言うと、この世には現在の科学では証明できない偶然が起こり、因果を持っているということだ。自然な成り行きに身を任せた方が上手くいくことが多かったり、悪い予兆が外的なものから感じて結果よくないことが起きるなどの説明源だ。
人間の認知の偏りによって、まだ人間は氷山の一角しか世界を把握できていない。そして、帰納法の実証により世界は科学されるが人の経験から得られる事実は歪むのでなかなか真理に近づくのは難しい。そして資本主義の世の中で、お金にならない研究は予算がない。これも研究が進まない原因なのかもしれない。
シンクロニシティの話に戻るが、例えば心理法則の知識を得ても実践的なアプローチは不完全だと言える。心理知識を得た現代人は他人の心理を掴むことができるようになったわけではないということだ。外的要因によって個の時間が優先されるようになり人間関係が希薄になったという状況を加味しても、人間心理はあまりに複雑で結局、心理知識はあってないようなものと感じる。
だから、超人間的なエネルギーの存在を信じる方が、しっくりくる。一種、思考の停止という落ち着きどころな気がするが、超人間的なエネルギーがあることを前提として、その先の「人間はどう生きるか」に思考を使う方が実践的で興味が湧く。
結論、新しい経験をすること(運を鍛えること)と自分の感性を言語化したり強く念じたりして意識すること(自己理解すること)だなと考えた。考えた経緯はここでは省くが、また別で書きたい。
シンクロニシティからユングに興味を持ち始め、「ユングの生涯」「8つの性格分析」などの本を読んだり、ユング関係の動画を身漁った。そこには共感・同意できる所とそうではない所があって非常に興味深かった。ユングが提唱した論をしらみつぶしに議論の対象として書くか迷うが、今回はユングという人間と論述について私が考えた3つのみを紹介しようと思う。
現代社会でユング的人間は生まれにくい
ユングの性格は、①議論好きで②よく怒るが、直後には冷静になり的確な判断をする傾向があったらしい。「議論」の根幹となる思考はもちろん能動的なものだ。
そして、ユングが生きていた時代と比較すると現代は、受動的な盤面があまりにも多い。スマホからの偏った情報洪水から科学的根拠に裏付け足された【正しい】生活習慣に向かって生きようとする意識まで受動的に人生が形作られていると言える。
現代において、冷静に内面へ向き合い続けることは至難の技だ。幼少期のユングのような思考体験を得るには世界から隔離しなければならない。同調圧力やファストな刺激によって能動的に没頭できる時間は制限されてしまうからだ。
また、現代の議論の中心は、プロジェクトや合理的な選択のための決断のためのものが多い。そして、その答えは一般論との擦り合わせによって答えを導く。答えありきの自動思考の色が強いなと思う。
私も現代社会に生きる身として、よくこの状態に直面する。そして、「正解があるのになぜ議論をするのだろう」と会議や話し合いの価値を見出せないことが多くあった。資本主義的に意味があるが、ユング的な自己理解としては意味をなさない。そして、結果的にアイデンティティの確立が不十分となり精神的問題を抱える人が激増した。
夢分析は無意識を理解できるかもしれないが普遍ではない
ユングは人の夢から無意識を理解し、精神患者の治療に専念していた。
私が違和感を持ったのは夢の内容と分析の関連性だ。ユング自身が見た夢とその解釈がかなり強引に感じたからだ。神話との関連性・アニマアニムスとの関連性・象徴と事実の関連性においてしっくり来なかった。
おそらく、ユングの生きた時代背景がユングの理論を形作ったと言えるからだろう。ユングの時代では、それが真理とできた可能性もあるが今の時代では不適と思われる。真理は絶対的ではなく相対的に変わる。
事実、私という一例を挙げるとそもそも夢をあまり見ない。そして、夢を見た際にはユングの挙げる例のように現実離れした夢は見ない。過去を含めた日常を切り貼りした夢を見ることがほとんどだ。こと私にとって見ればユング的な夢分析のしようがないのだ。さらに、精神科医のユングが対峙していたのは精神病患者であり特に統合失調症患者に偏っている。仮に、統合失調患者にとっての普遍的な分析方法を編み出したとしてもそれはそうでは人間の普遍とは言えない。
思考の先の人生は、単純な生活
ユングは精神に向き合い続けた。そんな人生を送ったユングの最後に興味が湧かないはずがない。ユングの「自己理解=幸せ」の理論に乗っ取ると、考え続けた先に幸せがあるのかユング自身の最後の状態を知ることでわかるからだ。
ユングは晩年、自然に囲まれた牧歌的な生活をしていたらしい。そして、この単純な生活が人の精神において重要とする一方で難しいと考えていたようだ。なるほど、考えた先には自然と調和した静かな心の境地に達するのか。菩薩のようだな。
自然ヒーリングが近年流行っているが、これは思考の過程をふっとばし心穏やかにし、日常の喧騒から逃れることでリラックス効果を図ろうとするものだ。性質の異なるものだが、結果、自然に落ち着くのが興味深い。
自分で自然の良さに気づくのと、自然が良いとされる価値観に身を委ねてキャンプや森林浴をしているのは毛色は異なる。いずれにしても、幸福と自然は親和性があることがわかる。
老後は田舎に住んで牧歌的な生活をしたいと願う人は多い。「人生の最後」に限って自然に囲まれた状態を望むのは不思議だ。なぜなら、「老後」ではなく今その生活をすればいいからだ。ただ、今その生活を手に入れた場合、そこで行き詰まりを感じた時の次なるステージは自分で発掘しなければならない。年をとった時にその問題に直面し、次なるステージを模索するというのを想像すると、なぜか怖く感じる。
ユングだけではなく先人の人生を知るのは面白い。その人の人生と自分の人生の類似性を見つけ、その先の危機を把握する。それを回避して、別の思考と行動を選択して高次または幸福の可能性が高い状況に足を踏み入れることができる。
多岐にわたる人生ゲームを正しく遊びたい。
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