「本を語る」第7日 「歴史学者という病」
❶[1BOOK]
「歴史学者という病」
本郷和人 講談社現代新書2670 2022年9月28日第3刷発行
❷[3POINT]
①ヒストリカル・コミュニケーターを目指して
歴史学の魅力について、新しい枠組みをつくり、わかりやすく伝える、社会に還元するような人間が必要ではないかーこれが私の出した結論だった。
②歴史学にもマネタイズが必要
誤解を恐れずに言うが、おカネはほしい。ただし、自分だけではなく、もっと業界全体のことを考えて、である。これだけ食えない歴史研究者が多いのだから、彼らのもおカネが回るような新しい仕組みが必要だと思う。
③「輝ける古代」はエリートの歴史観
「古代」「京都」「天皇」は一本の線でつながっている。そして、その3つの要素をつなげている線の正体は、おそらく「エリート主義的な歴史観」ではないかと思う。一部のエリートが「日本の歴史として望ましい」方向にもっていった結果、デファクト・スタンダードとなった歴史です。だがこの歴史観は、実際の日本の歴史の一断面に過ぎないのではないだろうか。少なくとも、こうしたエリート主義的な歴史観とは異なった「歴史」が多数存在するのではないだろうか。我々歴史研究者は、もっとその事実に目を向けなければいけないのではないだろうか。
❸[1ACTION]
[実行すること=自分との約束]
好きな歴史を、楽しく学ぶ
学び続けることに意義がある
[思いついたこと]
私も、歴史は大好きで、学者になりたいと思った時期もありました。
大学受験の失敗で、その夢はいったん、破れてしまったのですが、
ずっと後になって、通信制で大学に入って、「この手もあったのか」と気づきました。
確かに、通信生から大学教授になった方も多いとか。
私の妹は、大学の講師をやってますが、なかなか大変なようで・・・
彼女の苦労を見ていると、大学教授を目指さなくてよかった、なんて思います。
何より、自分のちゃらんぽらんな性格を思うと、大学なんて組織には、まったく向いていないですから。
[そして]
出口治明さんの著書に出会って、「こんな学問のやり方があったんだ!」
通信制でお世話になり、最初のメンターでもある三浦和男先生がいつも言っていたように、
「いつでもどこでも学問はできる」
その言葉を胸に、これからも好きな歴史を、自分なりの方法で勉強していこうと思います。
❹[1episode]
☆網野史学の功罪
あえてこのようなことを書いたのは、今日まで網野善彦の総括が行われていないからで、それではなぜ総括が行われないのかと言えば、先生のように歴史を縦横無尽に語れる後進がいないから、という寂しい現実に尽きる。
唯物史観を超えていくために、そして網野先生を超えていくために、我々歴史学者は日々研鑽を積まなくてはならないのだ。
●「一つの国家としての日本」は本当だろうか?
●実証への疑念
●唯物史観を超えていく
以上が、歴史学について現在、私が考えている三つの柱である。
歴史を学びたい、歴史学に進みたいと考える若い人が増えてほしい。
切に願う。